こんにちは。
ブログをご訪問くださってありがとうございます。
ボディ・セラピストの天野茂美です。-
私のおうちサロンでは施術の後、お時間がある方にはお茶と手作りケーキ(というほどの物でもありませんが)をお出ししているのですが、7月と8月は夏限定のおやつをお出ししています。
実はこのおやつ、夏になると友人たちにも持っていくのですけれど、どんなに食欲が落ちていてもこれだけは食べられる❣とみんなが言ってくれる最強おやつ(笑)
何で作られているかは、食べた本人が当てるまでヒミツです(笑)
亡くなった母がよく作ってくれたのですが、母は自分で新しいものを作り出すタイプの人ではなかったので、たぶん料理好きのお友だちにでも教わったのではないかと思います。
昨日、これを作っていて、またこの季節が来たんだなぁと、季節の移り変わりを実感したのでした。
◇ ◇ ◇
あるきっかけがあって、この数日、今までより深いレベルで自分との対話を続けていました。
すっかりクリアになったと思っていたいくつかの感情が、ほんの小さな火種としてまだかすかにくすぶりながら残っていたことを潜在意識が教えてくれて、その感情の後ろで泣きじゃくっていた小さな私を、ありがとうのオーラで包み込みながら、ただただじっと見守り続けました。
その作業は思ったよりも苦しかった~!
なぜなら、それらの感情は、私の根源を揺るがすほどに深いものだったから。
これまでも何度も何度も癒してきたはずなのに、癒しきれずに残っていたものだったから。
本当にね、もうこれ以上生きていられない!って感じてしまうほどきつかった!
でも、苦しみながらも、なぜか「ありがとう」の言葉だけは忘れずにいられたのです。
こんなに苦しいのに乗り越えてくれてありがとう、本当にありがとう、と
それを伝え続けてあげられた。
だから、本当の自分に、また一歩近づけた。
そんな時間を経験して、一つ気づいたことがありました。
思い出した、と言った方が合っているかもしれません。
祈りがないと私は私として生きていかれないのだ、と。
母がクリスチャンだったこともあり、物心ついた頃から「祈る」という行為は、日常の中に当たり前のように存在していました。
でも一方で教会という存在は、あらゆる場面で私を干渉し制限する存在で、人生の苦しみの大元でもありました。
(注 私個人の感覚であり、キリスト教や宗教を否定しているわけではありません)
20代半ばに教会に行くことを止めた後でも、宗教という範囲を超えて祈ることは無意識的にも意識的にも続けていましたが、
このとき気づいたのは、これまでも祈ってはいたけれど、どこかで想いを差し引きながら祈っていたのかもしれないな、ということでした。
神さまという存在がいるとしたら、それは私にとって恐ろしい存在でした。
私を監視し、裁く存在でした。
(繰り返しになりますが、これは私の個人的な感情であり、否定しているわけでも非難しているわけでもありません)
宗教から離れ、大いなる力とか宇宙とか呼ばれる存在としての神という認識に変わっていたけれど、幼いころに根づいた圧倒的な存在感は、記憶の中にそのまま残ってしまっていて、
言ってみれば頭や思考で祈っていた、のですね。
そのことに気づいたとき、祈るという行為が全く別のものになりました。
本当の祈りとは、私の存在全部で、全身全霊をかけて行うもの。
それを理解した瞬間、祈りがなければ私は私としていられない、ということにも気づいたのです。
自分の本質はこれまでの人生の中にある とよく言われますけれど、こういうことなのだなぁと改めて実感しました。
本質の自分に一歩近づいた今、それがどんな変化につながっていくのか見つめながら、しっかりと自分に寄り添って生きてあげようと思います。
この世界で生きるすべての生命が、それぞれの命を輝かせて生きられるように祈りながら。
最後までお読みくださってありがとうございました。