自分の文章がセラピーとなっている。 | 自活屋徳々の誰にも読まれない役立たずな随筆

自活屋徳々の誰にも読まれない役立たずな随筆

あくまで自分の関心のあることだけを綴る随筆で、それが誰かの役に立つかどうかは読み手に委ねるところ。
私が一番関心あるものは、どうやって死ぬか。死に様は生き様の末路、ならばそれまでの行程は、激しく穏やかに溌剌と愉快に生きてゆきたい思いです。

帰阪初日、能勢電鉄沿線に住む

我が心の友とのグッとくるランチで

旅の幕を開けた。


心友とは彼此三年程の付き合いになる。

出歩ってまだ数える程しか会っていない。

でも心の底から何でも話せる間柄だと

私はそう感じている。


もっかい言う、


何でも話せる間柄だ!




私の心友の定義とは

私が恥ずかしい、

カッコ悪いと思うことを

すべて曝け出せる

存在の人を表している。


特に相手が女性なら

ええカッコしたくなり

自分を大きく盛って見せたり

嫌われるのを避けるため

本音を隠し相手に合わせたり

自分の歪んだ価値観を

敢えて曝け出そうとしない自分がいる。


しかしいつか自分の本性が

相手に知られることになるなら、

自分のカッコ悪いとこは

先に出しておきたくなるのが

心情ではないだろうか、

て自分は誰に同意を

求めているのだろうか。


いやいやそもそも

そんな気持ちにならないよ!

もしあなたが言いきれるとしたら、

その関係性に特に

執着していないと云える。

それが普通の友達の関係だと思う。

もちろん異論はない。

私もそうした友達はいる。



しかし心友には少なくとも

淡い恋にも似た

純粋でどうにもならない空白の気持ちが

どこかに存在している。

と今日気付いたのだ。


その空白の正体は

愛おしいピュアな気持ちなのか

歪んだ淀んだ欲求を満たそうとする

煩悩なのか

そのひしめき合いの葛藤が衝突し

自分ではどうすることもできないのだ。


だいたいに於いて

それらの答えは

出会いから三回目をピークに

次第に燃えていくことになるのか

それとも枯れていくのかが判明する


燃えていく行為とは

何も恋が発展するだけに囚われず

相手に対し

どこまで責任を持てるかだと思う。

それを器と云うのか、

心意気と云うのか

まだそんな経験をしたことがないから

正直わからない。


一方枯れていく行為とは

相手との関係性を

絶っていくことではなく

何の執着にも縛られない

良好な友達のような関係だ。


誰に迷惑もかからず

世間的にも波風も立てられない

相手を尊重できる自然な関係だと云える。


しかしそれが自分の自信のなさから

そそくさとそのステージから降り

家庭がすべてだから

妻がすべてだからと

逃げの言い訳にしているのも

男としてどうかとも思う。


そんなしょーもないことを

ごにょごにょ言ってしまうのだ!


私というやつは!



それを真っ向から受け止めてくれて

自分なりの考えを言ってくれる心友は

労わる気持ち、気遣いよりも深い

植木鉢の根っ子から花弁へ

丁寧に水を与えてもらう植物のような

生き甲斐となる気持ちにさせてくれるのだ。



いずれも相手のことを

思う気持ちと云いながら、

結局自分の内側で揺れている

心模様を謳っているに過ぎない。

なぜならどれも相手の気持ちではなく

私の気持ちだからだ。



ただひとつ云えることは、

彼女の写真がなくとも

今も笑った表情、

あどけない表情、

真剣な表情、

そのどれもが愛おしいと思えること。

その気持ちを抑えられず

別れ際にハグをした。


これを我欲と呼ぶのか

感謝の表現と呼ぶかは

これからの自分の選択によって

変わってゆくが

未だ自分でも観えていない。


ありがたいのは

私は自分の気持ちを文章にすることで

自己セラピーが行える。

そして小説のネタにもできる才能がある。

そんな不届き者なのだ。


そんなことを思いながら

帰りの能勢電の中で

このブログを書いた。



その時、スポーティファイから

ピーターセテラのこの曲が流れていた。


ワングッドウーマン



心友よ

近い内また会おう!



自活屋 徳々