七色遠景 -22ページ目

体温計


不意に落とした細い体温計


踏みつけた霜柱のように折れたガラスの破片

弾けて散らばる銀の雫

フローリングの床に

人工水銀が天の河を作る

星のない夜に

空もない夜に


あのサイレンは

パトカーか救急車か消防車か

どこへ行くのか

サイレンが もしこの部屋のすぐ傍で止んでも

もう怖くない

サイレンの緊迫感の誇張された赤い光も

もうわたしを脅かすことは出来ない

部屋の合鍵は誰も持たない

この番号は誰にも知られない

この夜は誰にも分かち合わない

わたしの姿は誰にも見せない

わたしの心は誰も知りたくはない

誰もわたしを知らない

今夜も微熱は下がらない

熱を測る体温計もない

測ったところで告げる相手はいない

人工水銀が

天の河を作る

不意にわたしがその河を踏みつける



ヘビースモーカー


別に世の中嘘ばかりだし


吸ってる空気の酸素の量より


本物なんて少ないし


それでも酸素を吸ってるつもりで

大通りの排気ガスを吸っては吐き出す


ヘビースモーカー

本物なんてめったにないし


見つけても

生ものだからね


やがて腐ってもっと汚い嘘になる

嘘なら嘘で構わないよ

徐々に真実なんてわかんなくなるから


そういうふりしてて

本物のふりしてて


真実なんて減らせばいいよ


急に数が減ったら

禁断症状出そうだから


だから

全て嘘の空気だと分かっていても


平気で生きていけるように

しばらく嘘と打ち明けないでいて


そしたらあたし


きっと嘘だけで生きていけるから


その日まで







<コメント>
今では書けません。
こう思ったことがないと言えば、嘘になるけれど。

夢と泥


夢などとうに忘れたのに


またわたしの中の鼻持ちならない小娘がしゃしゃり出て

饒舌に語りだす


忘れちまえ

黒い影は足元から 銀の鋏を入れて切り離せ


そいつは言葉を持たないから

嫌いだとは言わないだろう

嫌われてるとは思わないだろう

自分に都合のいい解釈が

何度その後不幸を見てきたか分かるかい


青銅色の泥の沼に足元を取られて

心臓の部分まで もう沼は来ているんだ

助けなんて来ない

でもこれ以上 深みに嵌ることもない

頑ななわたしの体が溶け出して

泥になって 溶けていけるなら

どんなにか楽だろうに


そんなこと神様は 許してくれない

ただ泥の中にいろ と



風景


灰色の雨の中



一日じゅう部屋で過ごす


厚い雲の覆う午後三時


レースのカーテンと窓を開ければ

大雨で人気のない


国道を隔てた舗道に

赤い傘をさした女性が ひとり見える


天井の明かりを灯し


この町のビルの群れに ひとつ灯りを点ける

この町にほの白い灯が点々と灯り


カーテンを開けたり閉じたりすることで

この町の風景のひとつとなる


赤い傘の女性が わたしにとっての風景であるように

今日のわたしは


ただ風景として生活する


テーブルの上の皿に残された


固くなった肉を一切れ頬張ると

ベッドに仰向けになり


焦点の定まらない猫のように天井を見る

中国製の扇風機が


ゆっくりと廻りつづける



あの街


薄汚れたビル群の隙間


食堂のクーラーの排気口からの熱風の澱みで

日雇労働者が呟きながら歩くアーケードの商店街で

夜明けの風俗街を立て看板を避けながら自転車で抜けて

商店街の安売り宝石店のショーウインドウの

たった一万九千円のダイヤのネックレスを

銀幕の煌びやかなコールガールみたいに毎日見つめて

でも買えなくて誰かに買われて

アスファルトは痰とガムと馬券だけ

石屋さんで青い石ころの夢を買って

駅ビルから見える空は低い水色

子供たち若いママたち女子中学生たち

髪をバレッタで無造作に纏め 

オレンジに塗りたくったベンチに座り 

手の届きそうな低い空を見ている 

その空だけがわたしのID

視界の面積だけの低い空が 存在証明

免許証も社員証もパスポートもない 

家を捨ててまた家も作らないわたしの 

たったひとつの存在証明

親しかった友の顔を見る代わりに

昔暮らした人の顔を見る代わりに

時々あそこに戻ればいいのか

どんな錯覚でも構いやしない

あの街だけが

わたしに優しかったんだ