カサカサカサ・・・
カサカサカサ・・・
カサカサカサ・・・
紙と紙が擦れるような音で、僕は目を覚ました。
枕元にある時計を見ると、夜中の二時。
何の音だろう・・・
僕は体を横にしたまま、目と顔だけを動かして音の原因を探したが、それらしい物は発見できなかった。
尚も、音は続いている。
僕は、本格的に音の原因を探るべく体を起こした。
すると、突然、音は止んだ。
何の音だったんだろう・・・
体を左右に捻りながら、360度、部屋を見回してみたが、やはり、原因を特定する事は出来なかった。
気のせいかな・・・
そう思いながら、ベッドに横になり眠り直そうとした瞬間。
カサカサカサ・・・
カサカサカサ・・・
また、さっきの音が鳴り出した。
やっぱり、気のせいじゃなかった。
僕は、勢い良く体を起こした。
すると、それと同時に音が止む。
何の音なんだよ !
気になってしょうがないので、今度はベッドから出て、ワンルームの部屋中を歩き回って原因を探した。
しかし、結果は同じだった。
ゴキブリが這っている音だろうか。
でも、それとは違う気がするし・・・
まだ音がしていれば、その音を辿って行って、原因を特定する事も出来るけど、もう音もしてないし・・・
めちゃめちゃ気にはなったが、仕事に影響してもいけないので、仕方なくベッドに戻った。
その日の昼休み。
会社の近くの店で、同僚の山下と食事を済ませた僕は、会計をする為に、レジの前で財布を開けた。
「あれっ ?」
違和感を感じた僕は、思わず声を発していた。
「どうしたんだよ ?」
山下が聞いてきた。
「1万5千円しか入ってなかったはずなんだけど・・・千円増えてるんだよ」
「え ?」
山下が、僕の財布を覗き込む。
僕は、良く見えるように、財布から三枚のお札を取り出して広げた。
「なっ」
「なって言われても、お前の財布の中身なんて知らないし・・・昨日までは、1万5千円しか入ってなかったのか ?」
「ああ・・・昨日、帰りにコンビニで買い物した時に、残りは1万円札と5千円札が一枚ずつしかなかったから」
「勘違いだろ」
「それはない ! 確実に確認したから・・・確が二回も使われてるんだから、絶対だよ」
「それは、お前の言葉使いしだいだろ・・・じゃあ、知らない間に誰かが入れたとか・・・」
「それもない ! ・・・俺、一人暮らしだし、昨日は、アパートに誰も来てないし」
「勘違いだって・・・勝手に、千円札が増える訳ないんだし・・・」
「そりゃまあ、そうだけど・・・」
僕は、納得出来ないまま、会計を済ませ店を出た。
それから一週間後の昼休み。
「あっ !」
食後に、店のレジで財布を開いた僕は、一週間前と同じように声を発していた。
また、千円札が一枚増えていたからだ。
確かに、昨日、最後に財布を開いた時には、1万円札と5千円札が一枚ずつしかなかったはずだけど・・・
「どうしたんだよ ?」
「また、千円札が一枚増えてるんだよ」
山下の問いに、僕は答えた。
「また !? ・・・勘違いじゃないのか ?」
「違うよ、絶対 !」
後ろに人が並んでいたので、取り敢えず会計を済ませ店を出た。
「本当に、勘違いじゃないのか ?」
「絶対違う !」
会社への帰り道、僕達は、さっきの話を再開した。
「何か、心当たりは無いのか ?」
「・・・無いことは無い」
「あるのか ?」
「ああ・・・カサカサカサっていう音」
「カサカサカサ ?」
「ああ・・・この間も今日も、寝てた時にカサカサカサっていう音がしてたんだよ」
「・・・」
「で、昼に財布を開けたら千円札が一枚増えてたから、多分、何か関係があるんじゃないかと思うんだよな」
僕の推理を山下に披露した。
「ゴキブリだろ」
「ゴキブリは、カサカサだろ」
「一緒じゃねえか」
「いや、俺が聞いたのはカサカサカサなんだよ」
「カサが一個、増えただけだろ」
「いやいや、素人には分からないだろうけど、微妙に違うんだよな。紙が擦れるような音でカサカサカサっていう感じで・・・」
「カサカサカサに、プロも素人も無いだろ」
「そうだ・・・今度の金曜日、張り込みに付き合ってくれないか ?」
「張り込み ?」
「ああ。二人で交代で寝ながら、一晩中、財布を見張ってれば、何か手掛かりが掴めると思うんだよ」
「一晩中 !?」
「ああ・・・土日は休みだから、大丈夫だろ」
「面倒くせえよ。一人でやりゃいいだろ」
「一人じゃ徹夜する自信ないし」
「・・・」
「お前に着せられた、俺の勘違いだっていう冤罪を払拭する為でもあるし」
「冤罪って、大袈裟な・・・」
「このままだと、お前も寝つきが悪いだろ」
「毎日、熟睡してるけど」
「興味あるだろ、お前も」
「そりゃまあ、本当に、知らないうちに千円札が増えてるんだとしたらな」
「じゃあ、決まりだな」
「決めるなよ、勝手に」
「決まりじゃないのか・・・じゃあ、キャンセル料が発生するけど・・・」
「何でだよ ! 予約もしてないし、そもそも、お前の家ホテルでもないだろ」
「俺の実家、旅館やってるから、俺のアパートも、旅館の離れみたいなもんだろ」
「どういうシステムだよ・・・どこだよ ? 実家って」
「岡山」
「岡山と東京って、離れ過ぎだろ !」
「で、どうする ?」
「・・・分かったよ・・・多少は興味あるし・・・付き合ってやるよ」
金曜日。
僕と山下は、会社帰りに外で夕食を済ませ一緒に帰宅した。
「狭いな・・・」
ワンルームの部屋に上がった山下は、背負っていたリュックを床に置きながら言った。
「まあ、一人暮らしだから、これで充分だろ・・・山下が泊まりに来るって分かってたら、もうちょっと広い部屋に引っ越してたんだけどな」
「いや、そこまでしなくても・・・それはそうと・・・」
山下は、部屋の中を見回しながら、
「俺は、どこに寝るんだ ?」
と言った。
部屋には、シングルベッドが一つだけしかない。
「お客様は、素泊まりと伺っておりますので、布団は用意しておりませんが」
「いや、素中の素だな ! いくら素泊まりでも、布団くらい用意するだろ・・・ていうか、旅館の離れ気取り止めろよ」
「交代で寝るんだから、俺のベッドで寝りゃいいだろ」
「嫌だよ。お前と一緒のベッドなんて・・・何か、ないのか ?」
山下は歩いていき、収納を開けた。
すると、そこには、布団が一式あった。
「なんだ、あるじゃねえか」
そう言いながら、布団に手を伸ばしかけた山下を、僕は、慌てて止めた。
「駄目だよ ! これは」
「何でだよ ?」
「彼女が使ってた布団なんだよ」
「彼女が使ってた ?」
「ああ」
「使ってたって事は、今は、使ってないんだろ ?」
「ああ。一年前に別れた」
「じゃあ、いいだろ」
と言って、また、手を伸ばしかけた山下を、また、僕は止めた。
「駄目だって・・・付加価値が下がるだろ」
「付加価値 ?」
「ああ・・・『彼女が寝てた』っていう付加価値が付いてた布団が、お前が寝る事で、ただの、薄汚れた布団に成り下がるだろ」
「薄汚れたは余計だろ。どんだけ俺の事を下に見てんだよ」
「それに、もし、彼女とよりが戻ったら、どうするんだよ」
「この布団、使えばいいだろ」
「この布団 !?」
「ああ」
「お前が寝た、薄汚れた布団を !?」
「ああ・・・薄汚れたは余計だけどな」
「お前が寝て薄汚れた布団に彼女が寝るって・・・それは、もう、もはや浮気だろ」
「何で、そうなるんだよ・・・嫌ならいいよ、帰るから・・・」
と言って、山下は、床に置いていたリュックを肩に掛けた。
「ちょっと待てよ・・・分かったよ。じゃあ、使っていいよ・・・でも、裏返して使えよ」
「ああ・・・別に、どっちでもいいよ、それくらい」
機嫌を直した山下は、リュックを床に置いた。
僕は、山下の気が変わらない内に、宿泊するという既成事実を作るべく、布団を敷く行動に着手した。
「分かってるだろうな・・・俺が布団を敷いたという事は、もう、後戻り出来ないって事だぞ・・・帰るなんて言わずに、絶対に泊まれよ」
テーブルを挟む様に、ベッドの反対側に布団を裏返して敷きながら、僕は山下に言った。
「分かってるよ。大袈裟な言い方するなよ。布団敷いたくらいで・・・ちょっと、トイレ借りるぞ」
「ああ・・・あっ、ちょっと待て・・・お前、座ってするタイプか ?」
「ああ」
「じゃあ、便座、裏返して使えよ・・・彼女も使ってたから」
「どうやって裏返すんだよ !」
「鳴らないな・・・」
布団の上に座っている山下は、テーブルの中央に置いてある僕の財布を見つめながら言った。
「まあ、二回とも、音が鳴ったのは、日付が変わって寝てる時だからな」
僕は、ベッドに座ってテレビを眺めながら答えた。
「財布の中は、音が鳴った時と同じ状態にしてるんだろ ?」
「ああ。ちゃんと、一万円札と五千円札を一枚ずつにしてるよ」
時刻は、十二時前。
「じゃあ、そろそろ、交代交代で寝るか」
「そうだな」
「俺から寝ていいか ? 眠たくなってきたから」
「それはズルいだろ。俺だって眠いし」
「じゃあ、どっちから寝る ?」
「眠気が上の方からでいいんじゃないか・・・お前、何%くらい ?」
「俺は・・・60%くらいかな・・・お前は ?」
「俺は、61」
と言って、僕は、ベッドに横になり掛け布団を掛けた。
「待て待て ! ・・・ズルいぞ、お前」
山下は、慌てて駆け寄って来て、僕の体を起こした。
「何だよ ! いい夢見てたのに・・・もう、勝負は付いただろ」
僕は、目を擦りながら文句を言った。
「どんだけ眠りに就くの早いんだよ ! 勝負は付いたって、言ったもん勝ちじゃねえか」
「勝負は勝負だろ」
「じゃあ、俺は、62だよ」
「俺は、63」
と言って、僕は、また、横になって掛け布団を掛けた。
山下は、また、僕の体を起こす。
「64」
「65」
「眠気のオークション会場か !」
山下は、僕の頭を叩いた。
「俺の眠気に勝とうなんて、10年早いんだよ」
「だから、言ったもん勝ちだろ」
「あっ。今、お前、瞬きしたよな」
「えっ ? 何だよ、急に・・・そりゃ、するだろ。人間なんだから」
「仮眠とったんだから、もういいだろ・・・俺、寝るぞ」
「瞬きを仮眠と捉えるんじゃねえよ !」
「今日、朝早かったから、眠いんだって」
「朝早かったからって、遅刻して来ただろ、お前・・・理由は何なんだよ」
「二度寝だよ」
「充分、寝てんじゃねえか」
「とにかく眠いんだよ、今日は・・・頼む、寝かせてくれ」
と言って、僕は、強引に横になって掛け布団を頭から被った。
「もう ! ・・・二時間経ったら起こすからな !」
「分かった分かった」
僕は、掛け布団越しに答えて眠りに就いた。
「おい。もう昼だぞ」
山下の声で、僕は目を覚ました。
時計を見ると、十二時前。
「もう、こんな時間か・・・」
僕は、ゆっくりと体を起こした。
「いつまで寝てんだよ・・・交代の時間に起こそうとしても、なかなか起きねえし・・・」
「・・・どうだった ? 音したか ?」
「いや、しなかった。お前が起きてる時はどうだった ?」
「しなかったな・・・」
「ちゃんと、前の時と同じ状態にしてたんだろうな ?」
「ああ」
僕は、一応、財布の中身を確認してみた。
そこには、昨日と同じく、一万円札と五千円札が一枚ずつしか無かった。
「増えてないなあ・・・千円札」
「やっぱり、勘違いだって」
「音は?」
「ゴキブリか何かだろ」
「そんな筈ないと思うんだけどな・・・」
「これ食べたら帰るぞ」
山下は、昨日買って来ていたコンビニ弁当を食べながら言った。
「何でだよ ?」
「夕方から、彼女とデートだから」
「職場放棄かよ」
「職場放棄って、何だよ ?」
「大事な、張り込みっていう業務の途中だろ」
「業務じゃないだろ。刑事でも探偵でもないし」
「お前が今食ってる弁当、俺の奢りだぞ。弁当分くらい働けよ」
「もう、充分働いてるだろ。俺の方が長く起きて見張ってたんだし」
その時、カサカサっという音がした。
二人同時に、音の方を見た。
そこには、テレビ台の後ろから這い出てきたゴキブリがいた。
「あっ !」
僕は、慌てて、近くに置いてあった雑誌の文春を手に取って、ゴキブリを追いかけた。
パン !
パン !
僕の文春砲を、ゴキブリは華麗なステップでかわしていく。
パン !
パン !
更に、ヒートアップしていく僕。
しかし、そんな僕を、
「ちょっと待て」
山下が制した。
「何だよ ?」
「こういう事もあろうかと、準備してたんだよ」
見ると、いつの間にか、山下は折り畳んだ新聞を手にしていた。
「どうしたんだよ ? その新聞」
「家から持って来たんだよ・・・ゴキブリ専用の新聞を」
「ゴキブリ専用 ?」
山下は、僕の疑問には答えず、ゆっくりとゴキブリに近付いて行く。
ゴキブリは逃げ疲れたのか、ピタッと動きを止めた。
山下は、照準を合わせた。
次の瞬間。
パーン !!
新聞は、見事にゴキブリにヒットした。
山下が、ゆっくりと新聞を持ち上げると、既に息絶えたゴキブリが姿を現した。
「ゴキブリ専用の新聞って、どういう事だよ ?」
僕は、さっきの疑問を、再び口にした。
「これだよ」
山下は、新聞のゴキブリをヒットした部分を見せてきた。
くっきりとゴキブリの痕跡が残ったその部分には、ゴキブリホイホイの広告が掲載されていた。
「それが何だよ ?」
「ゴキブリの身になって考えてみろよ」
「ゴキブリの身に ?」
「ああ・・・ただの、ゴキブリとは何の関係も無い記事や広告が載った部分で叩き殺されるのと、宿命のライバルのゴキブリホイホイの広告が載った部分で叩き殺されるの・・・お前なら、どっちが良い ?」
「さあ・・・」
「断然、ゴキブリホイホイの広告が載った部分で叩き殺される方が良いだろ」
「・・・」
「その方が、ゴキブリだって本望だろうし。それが、武士の情けってもんだよ」
「そうかなあ・・・」
「そうに決まってるよ・・・見てみろよ、ゴキブリの死に顔・・・心なしか、笑ってるように見えるだろ」
「分かんねえよ。ゴキブリの笑顔なんて見た事ないし・・・」
僕は、ティッシュを何枚も抜き取り、ゴキブリを包んでゴミ箱に捨てた。
その様子を、山下は、手を合わせて見送る。
こうして、関係者だけで、ひっそりとゴキブリの葬儀を済ませた僕たちは、葬儀後に出される仕出し弁当と化した残りのコンビニ弁当を、また食べ始めた。
「本当に帰るのか ?」
僕は、リュックを背負って玄関に向かう山下に声を掛けた。
「ああ。ゴキブリは殺したから、もう、音はしないだろ」
「だから、それとは違う音なんだって」
「でも、一晩中見張ってたけど音はしなかったし、千円札も増えてなかったし、俺はデートだし・・・この三大条件が揃えば、そりゃ帰るしかないだろ」
「・・・」
そこまで言われると、僕には、返す言葉が無かった。
「じゃあな」
山下は、そう言い残して部屋を後にした。
その日の夜。
僕は、もう一度、自分一人で確かめてみる事にした。
昨日の夜は山下が居て、過去二回とは条件が違ったから音が鳴らなかったのかもしれないし・・・
僕は、いつもの様に、テーブルに財布を置き、明かりを豆電球にしてベッドに入った。
そして、あの音をおびき出す為に、目を閉じて眠ったふりをした。
カサカサカサ・・・
カサカサカサ・・・
目を閉じてから数十分後。
あの音が鳴り出した。
僕は、そっと目を開ける。
しばらく様子をみていたが、音が鳴り止む事はなかった。
やはり、音は、すぐ横にあるテーブルの上の財布から聞こえてきているようだった。
僕は、寝返りをうつふりをしてベッドの端に移動し、うつ伏せの状態になった。
尚も、音は続いている。
豆電球の薄明かりの中、そこから二つ折りの財布を確認すると、何かが出入りしているように見えた。
その何かは、財布から少しだけ顔を出しては引っ込む、という動作を繰り返していた。
何だろう・・・
僕は、思い切って身を乗り出し、財布まで50cm位の所まで顔を近付けて確認した。
すると・・・
それは、お札だった。
1万円札が、何度も繰り返し、財布から福沢諭吉の顔が見える程度に出入りしていた。
あの、カサカサカサ・・・という音は、1万円札と5千円札が擦れる音だったのか・・・
じゃあ、この音と、千円札が増える事とは、どういう関係があるんだろう・・・
僕は、体を、ゆっくりとベッドに戻しながら考えた。
そして、しばらく考えた結果、ある結論に達した。
そうか !!
そういう事か !!!
でも、そんな事って・・・
もし、その結論が正しいとすれば、朝起きたら、また、千円札が増えている筈だ。
僕は、期待を胸に、眠りに就いた。
朝になり、僕は目を覚ました。
財布の中身を確認すると、予想通り、千円札が一枚増えていた。
やっぱり・・・
夜中の、あの1万円札の行為。
あれは、子作りだったんだ。
まさか、1万円札の福沢諭吉と5千円札の樋口一葉が子作りをする事で、野口英世の千円札が生まれていたなんて・・・
新入社員の名刺
富永が、会社の応接室のドアを開けると、二人のスーツ姿の男がソファーから立ち上がった。
一人は、取引先の営業課長の谷川。
そして、その隣にいたのは、初めて見る若い男だった。
「ああ、谷川さん。今日は何か ?」
富永は、二人の前に歩み寄り声を掛けた。
「はい。新人が入ったんで顔見せに」
「そうですか。わざわざ、どうも」
「来月から、こちらを担当する事になった野口です」
谷川は、隣の若い男を紹介した。
「初めまして、野口です」
そう言って、野口は、名刺入れからある物を取り出し、富永に差し出した。
「えっ !? 何、これ」
富永は戸惑っていた。
それは、野口が差し出した物が・・・千円札だったからだ。
「名刺です」
野口は、あっさりと答えた。
「名刺 !!?」
訳の分からない富永は、救いを求めるように谷川を見た。
「こいつの名前、野口英世っていうんですよ」
谷川が、解説してくれた。
「野口英世 !?」
「ええ。偶然、同姓同名だったんで、千円札を名刺代わりに使おうって事になって・・・」
「偶然て・・・どう考えても、野口英世から取ってるでしょ、名前」
「運命を感じますよね」
野口が、感慨深げに言った。
「必然だって」
「名刺作る手間も省けますしね」
と谷川。
「その分、めちゃめちゃお金かかるじゃないですか・・・費用は会社持ちなんですか ?」
「いえ、自腹です」
「自腹 !?・・・大丈夫なの ?」
富永は、野口に聞いた。
「まあ、大変と言えば大変ですけど・・・若い時の苦労は金を払ってでもしろって言いますし」
「無意味な苦労だと思うけど・・・」
「名前も、すぐに覚えてもらえますし」
「千円札渡さなくても覚えてもらえると思うけど・・・特徴的な名前だから」
「名刺なんで、ワイロ代わりに堂々と渡せますし」
「結局、捕まるだろうけどね・・・」
「あと、一番便利なのは、万が一お金がなくなった時でも、名刺さえあれば買い物が出来るっていう所ですよね」
「それが、本来の使い方だからね・・・」
「とにかく、いい所だらけなんですよね」
「まあ、君がそれでいいんなら、別にいいけど・・・」
数ヵ月後。
谷川が、見知らぬ顔の若い男を連れて、富永の会社にやって来た。
「ああ、谷川さん。今日は何か ?」
「はい。新人が入ったんで顔見せに」
「またですか ?」
「はい」
「この間の野口君は ?」
「自己破産して辞めました」
「でしょうね・・・」
「何が原因だったんですかね ?」
「名刺ですよ」
「ギャンブルにでも、はまってたんでしょうかね」
「いや、だから名刺ですって」
「まあ、それはともかく、今度、野口の変わりにこちらを担当する事になった・・・」
「福沢諭吉です」
と言って、若い男は一万円札を差し出した。
ホテルの引っ越し
「あー疲れた !」
出張一日目の仕事を終えた僕は、予約しておいたホテルの部屋に入ると、ベットに身を投げ出した。
そのまま、しばらく休んでいると、不意に、ドアがノックされた。
「なんだよ、もう・・・」
ドアを開けると、見知らぬおじさんが、紙袋を手に立っていた。
「はじめまして。私、隣に引っ越してきた者で、あいさつに伺いました」
「引っ越し ? ・・・」
「最近の物件は凄いですね ! 色んな物が備え付けてあって・・・テレビにエアコンに冷蔵庫にベットまで・・・」
「そりゃまあ、ホテルなんで・・・それより、引っ越しってどういう事ですか ?」
「どういう事といいますと・・・」
「ここホテルなんで、引っ越してきたって言われても・・・ああ、そうか。たまにいますよね。ホテルに住んでるお金持ちの人」
「いえ、一泊だけですけど」
「一泊だけ !」
「はい」
「仕事で泊まられてるんですか ?」
「はい」
「じゃあ、ただの出張じゃないですか」
「えっ !? こういうのって、引っ越しとは呼ばないんですか ?」
「呼ばないですよ、もちろん」
「えー !!! ・・・じゃあ、ひょっとして、住民票を変更する必要もなかったんですかね ?」
「ないですよ・・・今まで、いちいち出張のたびに変更してたんですか ?」
「ええ・・・海外に行く時は、一応、国籍も変えてましたし」
「えー !! 国籍も !」
「はい。郷に入れば郷に従えって言うじゃないですか」
「そういう意味じゃないんですけど」
「そうだったのか・・・申し訳ない事したな・・・」
「何がですか ?」
「いや、盛大な送別会、開いてもらったんですよね・・・友達とか近所の人に・・・」
「一泊の出張で !?」
「ええ・・・どの面下げて会えばいいんだか・・・」
「あの・・・僕、仕事で疲れてるんで・・・もう、いいですか」
「ああ、すいません、お疲れの所・・・じゃあ、この辺で・・・」
と、帰りかけたおじさんは、何かを思い出して立ち止まり、戻ってきた。
「大事なもの渡すの忘れてました」
「なんですか ?」
「これ」
おじさんは、僕に、一枚のハガキを渡した。
「明日、私の送別会をやるんで、よかったら出席してください」
「するわけないでしょ !! ・・・家に帰るだけでしょ !!」
バタン !!