2023年旧暦新年・・・父の死を超えて | 毎日がミラクル☆セドナ❤️奇跡の大地から:ガイアの愛をあなたに☆

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2023年旧暦新年・・・父の死を超えて

 

今年の旧暦新年(新月)は、ヒューマンデザインの新年(レイブ・ニューイヤー)

そして地球からは肉眼で5万年に一度しか見られない惑星の接近が重なりました。

 

今、とてもパワフルな時ですね。

 

父の死に関して書き始めたのは3週間前ですが、体調が良くなったと思うとまた体調を崩し、

というのを繰り返しておりました。
そのため、書き終えるのに長期に渡り、気づけば旧暦新年となりました。

 

とても長くなりましたので、自分でも整理するため、

目次っぽくなったけど😅テーマごとにまとめました。
パパに関わりのあった皆様や、もし、興味があるところがあれば
一部でもお読みくださいませ・・・

 

これはブログとしてより、自分の心の整理のために書いておりますので・・・

ダラダラしておりますがご了承ください。

 


父の魂からの知らせ?

人工呼吸器は本当に助けになるのか?

認知症?それとも死の予兆?

父が治療を拒否?心拍停止
父の死に対する私と母の違い・・・
アメリカと日本の葬儀・遺言への感覚の違い
パパ、ありがとう・・・父との最後の対面
私たちの魂は死ぬ時を選んでいるのだろうか?
奇跡は起きる・良いことも悪いことも続かない振り子の法則

 

 

***** ***** *****

 

父の魂からの知らせ?

 

父は11月15日に人工関節置換手術は無事に終わったものの、心拍数が安定せず、

一旦、リハビリ施設に移ったものの、また誤嚥性肺炎とコロナの治療で病院に戻り、

その治療も終わり、またリハビリ施設へ・・・

 

11月21日あたりから私がコロナで倒れていた約2週間、

友人のサリタが父の見舞いに行ってくれて・・・という日々が続きました。

 

やっとコロナから復活した私は12月8日から母の介護で両親の家に泊まっていましたが

(母も12月1日からぎっくり腰で動けなくなり、ルミちゃんが2日〜7日までいてくれた)

まだ自分の体調が本調子ではなく、パパは完全介護の施設にいるので

むしろ、ママの介護を私がしなくては、ということで、私は母と一緒にいました。

でもママの様子を見ながらそろそろ、パパのお見舞いに行こうとも思っていました。

 

そしてその日、12月11日

父のお見舞いに行ってくれるというサリタに
パパが好きなアイスクリームを買って行ってあげてほしい、

と頼んで、彼女から、お父さん、美味しそうに食べてるよ、と報告を受けた直後でした。


「パパが大変」と彼女から連絡が・・・

父が急に胸が痛いと言うので、サリタが看護師を呼ぶと
体内の酸素量が急激に下がっているということで、病院に搬送されたとのこと。

 

・・・・・

実はその前日、10日の夜、家の電気を消して寝ようとしていた時、おかしなことがありました。

 

リビングにはソファがあり、ローテーブルの上にデスクトップのパソコンが置いてあります。

それは父と母が普段、日本のニュースや日本のYouTubeの番組などを見るためにテレビがわりにしているのです。

でも、母もギックリで自分のベッドルームから動けなかったし、
私も触っていなかったので、スイッチはオフになったままでした。

 

私が電気を消して寝ようと、ふと、
リビングのソファのいつも父が寝っ転がってパソコンを見ていた場所を通りかかった時、

誰も使っていなかったパソコンが急に10秒ほどついたのです。

私は、その時、

あれ?電源が入っていないパソコンが急につくなんてありえない・・・
もしかしたら父に何かあったのでは・・・

と感じて、その夜は眠れませんでした。

 

そして明け方、眠れないまま、息子と娘との三人のチャットにメッセージを送りました。
 

「私は子どもの頃、じいじ(私の父)との思い出はほとんどないけど、

今、じいじと時間を共にして、病院で私の手を握って

じいじが『ありがとう』と言ってくれたことは私にとって、宝物になった」

 

今想うと、もう、父の魂は肉体を離れる準備をして、

私のところへ来てくれていたのかもしれません。

 

でも私のエゴは、

そんなはずはない、パパには自叙伝を書いてもらうって約束したし!

あと3冊、本を書くまで死なない、と言ってたんだから!
とその感覚を否定してしまいました。

そして、その日の午前中でした。
私は病み上がりで、しかもほとんど寝ていない状態でしたから、

娘のココが私に車の運転はしないで欲しい、
ということで、ココがサリタに連絡してくれて彼女が迎えに来てくれました。


人工呼吸器は本当に助けになるのか?

病院に行くと、救急病室で父は人工呼吸器を付けられていました。

 

これは父の死後、最近、調べて知ったことですが、

人工呼吸器はつければいい、というものではなく、

専門家の資格を持った医師が、その人の状態に合わせて酸素量などを調整しないと

逆に人工呼吸器が肺の損傷を引き起こしてしまうケースもある、と。

 

もちろん、その患者さんの状態に合わせて、常に調整すればとても効果はありますが、

その微調整ができるドクターの数がとても少ないのが問題で、

現実には全ての患者に対してそういうドクターがつけられる状況ではない、とのこと。

(これはアメリカでも日本でも)

 

その調節に患者の状態がどうなるかがかかっているそうです。

ですから、ご家族が人工呼吸器をつける状況になられた時、

その点を医師にちゃんと確認したほうがいいと思います。

 

父の場合、思い返すと、父の状態に合わせて、そんな微調整はされていなかったと思います。

 

父は人工呼吸器が苦しかったようで、何度もマスクを外そうとしていました。

それで、私は父に「もう治療をやめて、家に帰る?」と聞いたんです。

(でも一旦、陰性になっていたコロナも、その時、また陽性になっていたので、
実際のところは家に連れて帰ることはできなかった・・・)

 

でも父は「95歳まで生きて、あと3冊、本を書くから治療はする」と・・・。

 

それが父と交わした会話らしい会話の最後でした。

 

 

認知症?それとも死の予兆?

 

それから酸素値が安定してきたので、簡易な酸素マスクに変えられました。

でもまたコロナ陽性と出たので、大きな空気清浄機付きの隔離室に入れられました。

 

父はその音が音楽に聞こえたらしく、音楽の音を小さくしてくれ、と言っていました。

 

実は手術後も父は

「この病院はずいぶん、日本に対してリスペクトを持っているんだなあ」というので

「なんでそう思うの?」と聞くと

「ずっと『荒城の月』を流しているじゃないか」と・・・

 

思えば、家にいた時から少し幻覚や幻聴は始まっていました。

自分の部屋のベッドなのに急に

「今、船に乗ってどこに向かっているんだ?」と言ったり・・・

「ここは台湾か?」と言ったり・・・

 

ここはセドナのパパの家だよ、というと、次の瞬間には、

台湾についての歴史など、理路整然と話すので、

認知症が始まっているのか、と私も困惑していました。

 

手術後も「ここは東京と多摩川の間・・・登戸の辺りか?」と言っていた。

でもその時は、痛み止めのモルヒネや麻酔薬のせいだと思いました。

 

それで認知症についても調べてみたのですが、物忘れとかが最初ではなく、
頑固になり、理解力(自分ができることと出来ないことの認知が出来ない)が低下する、

というのが初期症状だとのこと。

 

よく老人の運転事故がニュースになりますが、

本人が大丈夫、と判断しても、周囲の人が少し強気で鍵を取り上げてしまうのは必要かと。

 

私の父もそうでした。4月末に転んだ後、右足に力が入らなくなっていたので、
私は父の車のキーを取ってしまい、父が運転できないようにしてしまいました。

 

父は「俺の車だぞ!!なんで鍵を取り上げるんだ!」

「俺は18歳の時から運転してるんだぞ、俺を馬鹿にする気か!」

とかなり怒っていました。

交通事故は自分だけならまだしも、他人を巻き込む可能性がありますから

どんなに父が怒っても、怒鳴っても、私はそれだけは譲らなかった。

 

それも今、思うと、認知症の初期症状であったように思います。

自分の肉体的な状態を判断できず、私が取り上げるなら、別の車を買う!と

ネットで何台も情報をプリントアウトまでしていました。

 

でも父はもともと頑固でしたので、認知症ではなく、父の性質がますます頑固になったのか、と見逃していたかな、と思います。

 

ほとんどの家族は、その人の性格と思ってしまうそうです。
(いくつもいろんな人のを見ましたが、これが結構、参考になったな、と思ったので↓)

 

 

幻覚(場所の認知ができない)のは認知症なのか、

それとも死期が近くなって幻覚が起きているのか・・・

それも気になり始めました。


それで死期が近くなるとどうなるのか、調べて、この動画に行き当たりました。

 

 

結構、当てはまるなあ、と思ったものの、

95歳までは生きられないにしても、あと2年くらいは大丈夫だろう、

死期が近い、というより、認知症が始まったのだ、

と思おうとしました。

 

それで私はドクターに、父に対して認知症の検査をしてもらえないか、聞いたのです。
何か対処のしようがあるかもしれないと思ったので。

 

ところが!

そこで長寿国・日本とアメリカの差を感じました!

 

日本の男性の平均寿命:81.47歳 大体81〜82歳くらいということですね。

アメリカの男性の平均寿命:76歳

 

ドクターは私の質問に対し

「君のお父さんはもう90歳だろう?認知症になっていて当たり前。何もできることはない」

と言ったのです。

 

まあ、専門医に連れて行けば別ですが、その時は人工関節の手術からの回復がメインだったので、そんな感じに扱われました。

 

でも5月に心臓の医者に連れて行って、ペースメーカーを入れることについて質問した時も

「君のお父さんはもう90歳だろう?手術するリスクの方が高いから勧めない」

と言われました。

 

調べたら、日本では90歳過ぎても手術する、とあったのですが・・・



とにかく、その日、看護師さんたちも楽観的で

「大丈夫よ、お父さん、治るから」と言っていましたし、

本人も回復して家に戻れると信じて、

紙と鉛筆を渡すと、こういうのを買って家で使うと、電気スクーターの絵を描きました。

私は父の顔を見て、オッケー!と言いました。

 

私の自分の体験からの反省:

 

ご家族が幻覚を見出したり、幻聴を聴くようになった時は

まだまだ、と思いたくても、一応の覚悟をした方が

ご家族へ悔いのない対応の準備ができるかと思います。

 

それは私が後悔している点ですから、お伝えしたいと思いました。

 

 

父が治療を拒否?心拍停止

 

しばらくして、簡易的な酸素マスクのようなものに変えられて

夕方には父の酸素量は安定し始めました。

 

それで、私たちも朝から何も食べていなかったし

母のことも心配だったので、スーパーでアメリカンなんちゃって寿司を買い

母に届け、家に帰って私も何か食べることに・・・

でもその後すぐに病院から電話があり、父が治療を拒否しているので

どうするか、命に関わるので決めるために病院に戻ってほしい、と。

 

それで簡単に食事を済ませて、私はそのまま病院に泊まるつもりで

今度はケニーに病院に送ってもらいました。

 

病室に行くと、父は頭がガクッと垂れて、苦しそうな姿勢。

誰も父のポジションを直してくれてなかった。

 

それでケニーが枕を肩と頭の間に入れて、心地よいであろう姿勢に直してくれました。

私がドクターを呼びに行っている間、ケニーはずっと父に話しかけてくれていました。

 

その後、看護師たちが来て、私に簡易ベッドを用意してくれて・・・

 

「お父さんは点滴も人工呼吸器も外してしまい、拒否していました。

私たちとしては患者さんの意思を尊重し、それ以上のことはできません。

ご家族としてどうしますか?」と聞かれました。

 

そこで私は、
「父は治療して良くなりたいと言っていたので

治療を続けてください」と頼みました。

 

酸素値も心拍数も安定していたので、ドクターが

「ではお父さんの目が覚めたら、点滴を始めましょう」と。

 

夜9時を過ぎた頃、ケニーは家に戻ることに・・・

 

私もベッドに横になろうかな、と思って、ふとモニターを見ると

父の心拍数がどんどん下がってきました。

 

みるみる間に心拍数が54くらいから20くらいまで下がってきました。

看護師を呼び「何が起きているんですか?」と私は尋ねました。

すると「お父さんの心臓は止まりかけています」

私は何が何だかわからず

「父を助けてください!父は寝ているだけです!お願いです!

父を家に連れて帰って、母と会わせてあげなくてはいけないから!

PLEASE HELP HIM, PLEASE!!!」

 

と喚き散らしてしまいました・・・

私は取り乱してしまい、一瞬、看護師たちに抑えられてしまいました。

 

私は父の枕元へ行ってパパの手を握って話しました。

 

「明日になったら、ココちゃんがパパに会いに来るんだよ!
パパ、ママにも会わないと。だからお願い、目を覚まして!

パパ、良くなって小説書くんだよね!

お願いだから目を覚まして!!

パパ、パパ、お願い、お願い・・・」

それでも父の心拍数はゼロになり、看護師たちが

「Honey, I'm sorry but your father is gone

残念だけど、あなたのお父さんは亡くなったのよ」と・・・

私は看護師たちに

「そんなことありません!父は眠っているだけですから!

ちゃんと治療してください。お願いします」と無茶なことを言ってしまった。

 

何度も看護師たちが私をハグして「あなたのお父さんは亡くなったのよ」と繰り返しました。

 

「でも私は父を家に連れて帰るって約束してたんです。

もっと早く、家に連れて帰ってあげればよかった。

私のせいです。私のせいです。母にも会わせてあげられなかった・・・」

 

そう泣き叫ぶ私を看護師たちは、ハグして

 

「あなたはベストを尽くしたんだから、あなたのせいじゃないわ。

もしお父さんが家に戻っていたら、お父さんは苦しんで死ぬことになったのよ。

お父さんのためにもこれでよかったの。自分を責めちゃだめよ」と言ってくれました。

 

それでも私は父を家に連れて帰れなかったことが悔やまれて、悔やまれて、

どうにも自分を納得させることはできなかった。

 

私が取り乱していたので、知らない間に、看護師が娘とケニーに電話してくれていました。

 

そして娘から息子に連絡がいき、しばらく、LINEのビデオ電話で、

私のコロラドにいる娘と東京にいる息子と三人で父とのお別れをしました。

 

ケニーが戻ってくると、私が何も考えられない状態だったので

病院の安置室には、一晩だけ、ということで、葬儀屋の手配などをしてくれました。

父が肉体を去った翌日、目を覚ますと一面、銀世界でした。

私にとっては、すべてを浄化し、父を迎えにきてくれたように感じられました。

 


2022年12月12日の明け方・・・パパ・・・綺麗な雪景色だよ、空から見えますか?
 

 

父の死に対する私と母の違い・・・

 

そして娘がコロラドから到着。

私が母の介護で忙しいので、父に付き添ってくれるつもりで来る予定にしてあったのです。

一足違いだった・・・でも私の大きな支えになってくれました。

 

周囲の方達は、お母様はさぞかし気を落としていらっしゃることでしょう、と

ご心配くださったのですが、母は父の弱っていく過程を見ていなかったためか、

日頃から「年齢順に逝くのが幸せ。私が元気なうちにお見送りしたいわ」

と言っていたためか、私よりずっと落ち着いてました。

 

「痛みも取れて、不整脈の心配もなくなったし、パパのためにはよかったと思うわ」

「悲しい、というより、ほっとした方が大きい」

 

母がそう言い切ってくれたことは、私にとって救いでした。

でも父から何度も以下のように言われていた私は母のように割り切ることができなかった。

 

「こんなところ(病院)にいたら、俺は死んでしまう。

もう、迎えにきてくれ。家に帰してくれ」

 

手術の日は、私は早朝から夜10時くらいまでずっと父のそばにいたのですが

麻酔で手術した記憶も、私が一緒にいた記憶も全くなくなった父から翌朝の未明に電話があり

 

「お前は俺をこんなところに見捨てたのか!俺は拷問されてるんだぞ」と。

 

それは人工関節の手術をしたので両足を固定されていたから。

でも父は手術をしたこと自体の記憶がなかったので、拷問されていると思ったらしい。

 

例えそれが麻酔薬のせいだとわかっていても、私にとってはとても辛く、

父の言葉が思い出されて、父の死後、3週間くらい不眠症になってしまいました。

 

(母がぎっくり腰をやる前、父の手術後、お見舞いに行った際、父が母の手を握り、ありがとう、と。

これが父と母の最後の別れになるとは、この時は思っていなかった)

 

ですから、死の予兆が見られた時には、自分のエゴからくる感情で否定せず、

その方と向き合い、最後、どうしたいかを話し合うのが

逝く方にとっても、残される家族にとっても、悔いのない最後が迎えられると思いました。

 

 

「もうね、悪いことは忘れて、良いことだけを思い出しましょう」

 

母はそう言って、ほとんど涙も見せなかった。
罪悪感に苛まれた私の方が精神的に参ってました。

 

母の前向きな態度は見習いたい・・・

 

 

アメリカと日本の葬儀・遺言への感覚の違い

 

娘が来てくれた翌日、娘と二人で父の火葬や最後のお別れの相談をしに葬儀屋へ。

日本と違うのは、パンフレットにまずは土葬か火葬か選ぶようになっていること。

 

こちらでは、土葬が多いので、まずは土葬の種類みたいなのがパンフレットに出てきました。

 

映画とか見ると、棺桶をそのまま墓地に埋めるシーンとかよく観ますよね。
ああいう感じです。土地が広いこともあるとは思いますが。

アメリカでは、先祖代々の墓、というのはありません。

お墓はあくまでも個人のものです。

 

でも最近は、遺灰をどこどこに撒いて欲しい、と遺言される方もいるようです。

 

そのパンフレットの中にはエコ葬みたいなのもありました。

遺灰を土に戻るカプセルのようなものに入れて植樹する・・・みたいな。

娘が私に「ママはこういうのが好きでしょ?」と訊いてきたので
マジで「うん、私、そういうのがいいわ」と答えました😅


いや、本当に自分が死んだ時のこと、考えましたよ。

遺言に書いておこうと思いました。

 

そう、遺言に対する日本人とアメリカ人の感覚も違うと感じます。

 

日本人は、遺言を書く、というと、死が近いから、と感じる方が多いのではないでしょうか。

日本では事務的というより、感情的に捉えるからではないかと。

 

アメリカでは、ある程度の年齢(60歳過ぎとか)になれば

特に家族がいる場合は、事務的な書類として遺言を用意するのは

責任ある市民であれば当たり前な感じです。

もっと若くても用意している人たちもいます。

 

ですから2年ほど前に、不動産屋に家の査定に来てもらった時、

父と母が遺言を用意していないと知って、びっくりされました。
(例えば、アリゾナ州では、家の名義は、ちゃんと遺言なり手続きをしておかないと

自動的には遺族にはいかない。一旦、州に差し押さえられてしまう)

 

それで私は父にアメリカ的に遺言を用意してほしい、と言ったら

「俺を殺す気か?」と・・・💦

父は典型的な日本人の遺言のイメージを持っていたんですね。
それで、遺言が残っていなかったので、色々な手続きが大変になりました💦

 

私にとって、それも学びでした。

私はちゃんと遺言を今のうちから用意しておこう、と思いました。

 

遺言は、感情的なものと、事務的なものと、分けておくと良いと思います。

 

感情的なものは、死期が迫ってきたと感じたら書けば良いけれど、

事務的なものは、元気なうちに用意しておくべきだと思いました。

 

 

 

パパ、ありがとう・・・父との最後の対面

そしてその翌日、まだぎっくり腰が回復していないママを

車椅子に乗せてパパと最後の対面に・・・


病院のガウンを着たままだったので、葬儀屋さんに

ママがパパのために選んだセーターとズボン、靴、

パパが好きだったベレー帽をかぶせてもらい

一緒に火葬してもらうために、これからも小説が書けるよう、

原稿用紙とペンと入れ歯を箱に入れて持って行きました。


ヒゲも剃ってもらい、唇も頬もきっと紅をさしてくださったのだと思います。

パパの顔色もよく、まるでただ眠っているだけのようでした。

明るく綺麗で暖かな部屋で最後のお別れをさせていただけました。

家族だけのお別れでした。
ケニーは病院で父とお別れしたので、家族だけで過ごすよう、配慮してくれました。

私とママと私の娘のココ、そして最後まで父に付き添ってくれたサリタも来てくれて、
私の息子のカイも、日本時間未明の3時でしたが、ビデオチャットでお別れができました。

 

みんなそれぞれ、パパとお話しする時間もありました。

 

「もう少し、楽しませてもらって、お土産話、持っていくから、

あんまり早く迎えに来なくて良いからね。

パパ、ありがとう・・・」by ママ

 

びっくりしたのは、お別れの最後にママがパパの唇にキスしたこと。
それには私たち、みんな感動しました。


素敵にアレンジして、ゆっくりお別れの時間を持たせてくださった

葬儀場の方に心から感謝・・・🙏



またまた日本と違うのは、火葬の時。

火葬は翌日、行われましたが、火葬の時は基本的に家族は行きません。

遺灰を入れるかわいい小さな壺を、ママ、私、娘と息子用に選びました。


それを注文して届いたら、遺灰を入れて、残りは大きなBOXに入れるので、

それが完了したら、死亡証明書と一緒に取りに来てください、と言われました。

 

日本の感覚からすると、なんか、事務的な感じがしますよね・・・💦

 

でも遺灰はとても細かくて、自分で小さな可愛い壺に入れるのは難しい、ということで

入れてもらえたのは良かったかな、と。

 

すべて、考えようですね・・・


私たちの魂は死ぬ時を選んでいるのだろうか?

 

なんでドクターの言うことを無視して、父を家に連れて帰らなかったんだろう?
なんで私は肝心な時にコロナに罹ってしまったんだろう?

なんで父にリハビリを勧めてしまったんだろう?
なんで父にもう頑張らなくてもいいから、って言ってあげなかったんだろう?

 

父の死後、後から後から、なんでなんで、と自分を責め立てていました。

 

でも、ソールシスターの一人の友達がメッセージをくれました。

彼女自身、愛するお嬢さんを亡くされています。

最愛のご家族の死を乗り越えた彼女からのメッセージは

私にとって、とても心に響きました。

「はっきり言えるのはナナさんがお父様の回復を誰よりも強く願っていたということ、

それを実現するために誰よりも頑張ってできることを全てやったということです。

お父様自身よりも。
お父様と人生の大半を共に過ごされたお母様は達観されて、

もうお父様とお別れの時期だと覚悟を決めていらした。

死期というのはそれぞれ自身が生まれる前に決めていて、

関わりを持つ周りの人間も承諾して生まれてくるのだと思っています。

ただ生まれてからはその約束をすっかり忘れているけれど。

そしてその最期の時というのは、それぞれにとってその人との最後の大きな学びの機会と設定したものでもあると思うのです。

ナナさんがお父様が去られたことを受け入れられないのは罪悪感のせいなのではなくて、

受け入れたくないから罪悪感を持つことにしているんじゃないかな。

お父様が魂として決めていらしたことで、

それを尊重してあげられたらすんなりお別れを言えるわけだけど、

そうもいかない、そんなことできる人に私はそもそも会ったことがない。

(ナナさんのお母様以外)

でもどちらにも深い深い愛があるのだと思います」

 


私たちの魂は、生まれる時と死ぬ時を選んできたのだろうか?

 

誰しも一度は考えることではないでしょうか?

この問いの答えは、どんな優秀な霊能者の言うことであっても

何をどう信じるか、ということ以外、

100%確かなことは誰にも言えないのではないかと思います。


私は自分の父への罪悪感を乗り越えるためにも、そのことを考えました。

父は、今でいうギフテッドチャイルドだったんだと思います。

小学四年生くらいで大学生の数学を解いていたので、小学校が面白くなく、

態度が悪いと先生から叩かれ、校庭の真ん中に椅子と机を出されて、

全校生徒が見えるところで座らされた、と言ってました。

父の生涯については今、語りませんが、とにかく、天才的な発明家で

数学の天才であったことは間違いありません。

父は貧乏で高校も出ていないので、知識は全て独学。

 

それは数学にとどまらず、政治、物理、歴史、文化、芸術、音楽の知識も深かった。

 

そんな父にとって自分の頭脳は、父の存在を支えるものでした。

 

でも、だんだん、認知症の片鱗が伺えるようになってきました。

 

自覚はしたくなかったけれど、父は自分を分析して、

それは察知していたのではないかと思われます。

幻覚症状に陥った後「私はどうも錯乱しているようだ」という分析はしていました。

 

私の父の姉、私が若い頃、一番影響を受けた伯母が認知症になった時、

「そうなったら、人間としての尊厳を私は護りたい」と言いました。

 

父は川端康成は自らの尊厳を護ったのであって、自殺ではない、と言い、

私にこう言ったのです。

 

「私は自分が認知症になって、人の世話にならねばならなくなったら、死を選ぶ。

それは自殺ではない。尊厳死だ」

 

「やあね、また、そういうこと言って・・・」

と私が笑って言うと父は真顔でこう言ったのです。

 

「いや、冗談ではない。私は本気だ」

 

私はその時のことを思い出したのです。

 

たとえ、父のエゴは、95歳まで生きて、あと本を3冊書きたい、

と思っていたとしても、すでに認知症が始まっていたため、
それ以上に症状が進んでボケ老人として扱われるようになる前に

父の魂は自分の尊厳を護って、自分の死期を選んだのかもしれない。

 

そう思い至ることができました。

とはいえ、父は入院中も、自分が思いついた小説のプロットを楽しげに

と言うより、誇らしげに、私に語っていました。

なのでそれは無念であったと思います。

 

霊能者の私の友達からも連絡があり、

「ナナが悲しみすぎていてコンタクトできない、とパパが言ってるよ」

と父からのメッセージを伝えてくれました。
(父が亡くなった後も、パソコンが勝手につくことが2回ありました。

あ、パパ、サインを送ってきてるのかな?と思いました。

でも、父は私の夢にも現れなかった・・・)

そして彼女は「パパは何か小説書いてた?それが心残りみたいよ」と。

 

それで私は父のパソコンから残っていた原稿を全て、私のパソコンに移しました。


マックのデスクトップだったので、そのあと、ケニーに使ったら?と

パソコンを渡したところ、全く電源が入らなくなった^^;

自分のパソコンは、私が必要なものを取り出した後は

もう、他の人には使わせないってことでしょうかねえ💦

 

奇跡は起きる・良いことも悪いことも続かない振り子の法則

父の訃報を何人かの友人・知人に伝えたところ、

父を慕ってくださっていた出版社の社長さんのYさんからご連絡いただきました。

そしてお電話でYさんとお話しができました。
 

父が生前、文藝春秋から出した3冊の小説の版権を得られたこと、

なのでキンドル版になるかもしれないけれど再販が可能になったこと、
それを父に伝えたかったこと、

そして、父が書き終えている小説などがあれば送って欲しい、

ぜひ、出版に向けて取り組みましょう、と・・・

そのことを伺った時、本当にありがたくて、涙が出ました。

父はサイキックの友人、ブライアンのところにも、7日間、連続で現れたと言ってました。
びっくり・・・😅

 

そして、ブライアンは、何かアイディアが浮かんだり、

情報と情報を埋めるような閃きがあったら、それはお父さんが来ている証拠だよ、と。
 

パパ、聞いてますか?

私にはパパが書こうとしていた新しい小説を書くことはできないけれど

パパが書き終えた作品をお渡しすることはできるし

パパの数奇な人生について、パパに代わって描くことはできる。

あちら側から私にインスピレーションを送ってね。


パパの意志を継ぐのではなく、

私の意思でやりたいと思うことだけさせていただきます。

父が生前、よく言っていたこと:

「人生はすべては一過性。
どんな状態も過ぎてゆく。

成功や幸せの絶頂は続かない。

それと同じように最悪だと思われることも続かない。
だから絶頂にある時には謙虚さを

どん底にある時は誇りを失ってはいけない」

 

そして私がそこに付け加えたいのは

どんな時にも感謝する、ということ。

父の死後、そのことは忘れていませんでした。

罪悪感がどんなに自分を傷つけるかもわかってましたが

過ぎていくからこそ、その時の自分にそれを感じさせることを赦そうと、思いました。


いつかは私もそこから抜け出せることはわかっていたので
泣くだけ泣いていい。
自分を被害者にしても、加害者にしてもいい。

とにかくそれも過ぎていくから・・・

 

下手に解熱剤を飲んでしまうと、熱が出せず、体がウイルスと戦えないように、

熱を変な止め方をしてしまうとかえって燻ってしまう。
だから入ってきたウイルスと自分が戦えるように、熱を出させてあげたほうがいい。

大きな悲しみ、苦痛、チャンレンジが来ていたとしても

ピークまで来れば、振り子が跳ね返っていくように、それは留まっていないから。

その分、大きな喜びがきっと待っている。

 

 

娘は滞在中、私の母にマニキュアを塗ってあげたり、

カレーパンやスープを作ったり、

一緒に母が好きなトランプをしたりして母を喜ばせてあげることを

色々してくれました。

 

私は母が毎日、一人でトランプゲームをしていることを知らなかった。

それで娘が帰った後は、私がそれを引き継ぎました😆
頭の体操、ボケ防止にもいいな、と思って・・・

 

そしてほとんどいつも父の残り物しか食べていなかった母に

毎日、美味しい料理を作ってあげて、

母が美味しい、美味しいと食べてくれることにも幸せを感じます。

 

正直言って、父は私の料理には肉が入っていないので

あまり好んで食べてくれなかったのですが、

母は好奇心もあり、どんなものも美味しいと食べてくれるので

本当に嬉しくて感謝です。

それはほんの小さな幸せかもしれません。
でもそんな小さなことにとても大きな感謝を感じます。

 

父は、人間にとっての究極の学びは愛だ、と言ってました。

それを最後の最後、父は感じられたのでしょうか・・
そして、私にもその学びを残してくれました。


 

パパ、これからママのケア、家のケアもしていくから、安心してね。
そしてパパの人生のことも、何かの形で描くからね。

パパ、最後まで戦って頑張ったよね。

それもパパらしい生き方だった。

尊厳を守ってパパは逝った。
それもパパらしい最後でした。

お父さんは、デジタル時代に入ってあきらめた発明をするために

きっとすぐに生まれ変わって、また天才的な発明するんじゃないかな、とケニーが言ってたよ。

そうかもね!

きっとパパは肉体の限界をキッパリ捨てて

次の次元に移っていったんだね。

パパはきっと天国でも休むことなく、次の計画を立てているんじゃないかな😆

小さい頃からパパの言葉に大きな影響を与えてもらいました。

 

パパ、私はパパの娘で幸せです。

誇りを失うことなく、前に進んでいきます。

パパ、ありがとう・・・

本当に、ありがとう・・・

 

愛してます・・・

パパの愛したセドナの家の庭は雪で真っ白だよ。

 

そんな美しい雪の日に・・・
 

愛と祈りを込めて・・・