ウィル・スミスのアカデミー賞のビンタ暴力事件。
ロシアのウクライナ侵攻問題。
どちらも「暴力」という言葉が共通のキーワードと言えそうでしょうか。
ウィル・スミスの件は、アメリカと日本では受け取り方に大きな違いがあるようですね。
簡単に言ってしまえば、米国では批判、日本では擁護、という感じのようです。
米国は、誰かを殴り、そのあと受賞、そこで愛を語り喝さいを受ける。それに?と、疑問や批判、拒否等があったようですね。
日本は、守るべきもの(家族)を守ったのは、カッコいいと。
話がどんどんズレていってしまいそうな、先に傷つけるような言葉の暴力・精神的暴力と身体的暴力とが取りざたされ、妙な方向に論点が移り、結果何も言えなくなるとか、どうとか。。。この辺りはちょっと横に置いておきましょう。
守るべきを守ることに日本も米国も異論はないようですが、その方法として「暴力の行使」という捉え方に大きな違いがある、そういうことでしょうか。
ロシアの侵攻も、ウクライナはその侵攻に対し守るべき自国民のためには暴力を持ってするしかない、ということになるのでしょうか。
争い、戦争の歴史、暴力の応酬で事を有利に終結させようとするのは、人類が始まって以来、綿々と続いているんですよね。
暴力はいけない、戦争はいけないと体験と歴史の積み重ねはあれど、今だ紛争があります。
歴史に学べと言われながら、人、人類は学べていないということなんですかね。
暴力で攻め込まれたら、ただやられ放しではいられない。
応戦するか、抗えなければ投降し服従するか、存在を失う=生物としての死か。(精神の崩壊で自己の喪失や自己意思の剥奪も含まれますかね)
一番わからないのは、最初にどうして暴力を振るおうと決断したかということかと思います。
あの暴力の一瞬前までは、何かはあったかもしれないが、暴力は起きていなかった、起こさずにいられていたのにと思わずにはいられません。
ウィル・スミスも、ロシアも、DVの加害者たちも
暴力を振る決断をする何かがあったのかもしれませんが、その方法をとった。それまでと違い、結局、暴力という方法を選択し、その爪痕の結果は様々なものが破壊され、失い、無くす。
自分自身も自分のあらゆるものが壊れ無くなり、誰も何も幸せにならない。にがく悲惨で重たいものが残るだけと思うのですが、そうは想像しないのでしょうか。
暴力で相手を服従させたから、力で屈服させたからと何が得られるのかと思わずにはいられません。思っていたものが手に入るのでしょうか。
ああ、あの時あの暴力の決断をしなかったら、していなかったらと、思い嘆くくらいだったら、その決断の前に何を如何に考えるかが必要で重要なのではないでしょうか。
ウィル・スミスはその後、「妻の病状に関するジョークは私には耐えがたく、感情的に反応してしまった」「深く反省している。私は未熟者だ」と述べているのですね。本当にいろんなものを失ったのではないでしょうか。
この言葉の後半が、小さいな痴話げんかから、大規模な戦争のような大きな暴力まで、暴力を最初に振るい仕掛けた人たちの気持ちに常に上がってくることを強く望みたいです。
暴力でない方法、耐えがたいことに対し、未熟ではない、正当で正義がまかり通る方法を選択してほしいと望むばかりです。
ヒロコ