デートDV防止教育・DV加害者プログラム                SEDA(シーダ)のブログ

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自分が自分らしく居られないと人は苦しみます。

自分で自分のことが決められる。これほど自分らしく居られる喜びはないのでは、ないでしょうか。

 

ホテルの食事などでバイキングって、よくありますよね。

バイキング、この時の子どもたちの喜びようったら、どれほどのものかと思ったこと、ありませんか。

ありとあらゆるお料理が並んでいる。それを自分で決められるんです。だから嬉しいんです。

好きなものを好きなだけ取ったり、珍しいものだけ取ったりと、自分で自由になんでも選べる。

普段だったら親や大人に栄養バランスを考えた食事、大人に決められ管理された食べ物なのが、その時ばかりは、自分で自分の食べる物を自由に選び自由に決められる。その喜びを満喫しているのです。

これは食べる喜びもですが、自分で決められる喜びの方が勝り、その二つが相俟っての喜びではと感じます。

 

自然災害の被災地支援に支援物資を持って行ったことがあります。その時もやはり感じました。

非常事態なので物がない。そんな中で、行政や善意の好意による物資の配給は、とても有りがたいものだと思います。

画一的な全員一致が当たり前の状況で、個々人で必要と思うものが違う中で、限られている中とはいえ、いくつか選べる自由を得られた時、自分の意思や好みを現していい喜び、それを感じている時の、その自然とこぼれる笑み、なんとも言えない生き生きとした表情!!忘れられません。

 

ああ、人は自分の意思を自由に発せられると、こんなにも生き生きといい表情をするのだなとつくづく感じました。

人は、子どもでも大人でも、自分のやることを自分で決められる、このことが何よりも、かけがいのない自分、自分らしさなのだなと思いました。

 

常に誰かに自分のことを決めてもらったり、自分で決めることを禁止され続けると、人は自分で自分のことが決められなくなってしまうんですね。それがジワジワそうなっていくと自分で決められなくなっていることにさえ気づきません。いざ自分一人になって決めなくてはならないことがあっても決められない。自分が無くなってしまっていて何を基準に決めていいかわからない。そんな自分に愕然とするのです。

 

自分が無くなってしまっている人は、何か居心地のよくないことや、反対にいいことを感じていても、それをあえて感じないようにしていることもあるかもしれません。そうでないと自分が安全でないからです。

ましてや、自分のことを言葉で表現するなんてことはできなくなっているでしょう。自分を客観的に見ることができ、それを言葉で他者に伝えることができるというのは、自分というものを、自分の内面を客体化しより深くわかっていないとできないはずだからです。

 

誰かの考えや、何かの力に飲み込まれ自分を失っている状態だとしたら、居ながらにして自分が無い状態。自分の自由意思が発動しない状態と言えるでしょう。

それは自分で自分の事が決められない、自分が無くなってしまっている、自分で自分を見失っているといえるでしょう。

自分のことや自分の気持を、自分で言えなくなっていると気づいたら、自分取戻しをしなければなりません。そうしないと自分と自分の周囲も巻き込み不幸にします。なぜならうまくコミュニケーションができず、人間関係がうまく進められないからです。

 

人は、自分を持っている人、自分がある人を時に煩わしく感じることもあるかもしれません。でも、双方向のコミュニケ―ションをするには、おのおのが自分を持っていないと関係性を築くためのコミュニケーションになりません。

自分の無いYESマンとのコミュニケーションは、表面上は何事もなく過ぎますが、手応えの無い深みあるコミュニケーションとはならず、もっと前のめりに相手に興味を持とうとは思えないものです。

 

自分がある人は、自分の考えを自分で見極め判断し、決断して相手に伝えようとします。その自分らしい、その人らしさとの会話に、人は魅力を感じ、楽しいと思い、また話してみたいと思って関係性ができていくのでしょう。

そしていい関係とは、お互いが、つねに自分がある関係をいつまでも続けられコミュニケーションをして行けることではないでしょうか。

 

                ひろこ

 

 


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子どもの頃から、「乱暴はしちゃダメだよ」「暴力はいけないことだよ」、と教わります。

教わるのに、現実はそこここに暴力が見られます。

まだ世の中の事がよくわかっていない子どもより、多くは、暴力はダメと教える大人がしています。

虐待、体罰、DV、パワハラ、セクハラ、犯罪、人権侵害、戦争。。。などなど、切りがありません。

いけないことと知っているのに、暴力があふれています。

 

「力」だけだと良いものとのニュアンスに感じやすそうですが、力の前に「暴」がつくとそうは思えません。

「暴」、調べてみました。

激しく荒々しいこと。不法なこと。無謀なこと。度を過ごす。とありました。

 

度を過ごすということは、つまり「力」というものは、それを使ったり発揮するのに節度や調整する制御能力が要るということになりますね。

その調整や制御をうまくするには、それこそ相当な力=知力、能力、実力、気力、思考力、決断力、忍耐力、自制力、生命力などなど、いろんなことが必要そうです。

力行使のための制御能力が無い、あるいは低いと、力を適切に使えず「暴」力となってしまうのではないでしょうか。

 

暴力に似た別の力に、「権力」というものもあります。

「権力」も調べてみました。

他人をその意に反しても実力で強制させるさまざまな形の強制力。社会的な「力」の一種で、通常、制度化された強制力を意味する。とありました。

 

人は自分の思い通りにうまく行くと、気持ちや気分がいいものです。

物でも、人でも、事でも、夢でも、思いでも、自分の思い通りになると、どんなに気分がいいか。

鼻歌気分?になることもあるのではないでしょうか。

そして、その気分のいいものは、誰しも早く手に入れたい、いっぱい手に入れたいと思うのが普通ではないでしょうか。

 

その手っ取り早い方法の最たるものが、「力」=「暴力」だと思います。なのでそれを選ぶのでしょう。

その手っ取り早い方法=暴力を行使したことで、自分の思い通りになるという成功体験は、当然その有効手段をあらゆる場面で使おうとするでしょう。

 

権力を持ち、暴力を行使されたら、もう逃げられそうにありません。

制御の効かない力のダブルパンチです。二重の力の暴走。一方的で圧倒的な暴力に翻弄されてしまいます。

力を使いこなす制御能力を持ち合わせないまま、その上権力の笠まで着て、よく考えもせず安易に暴力を行使されたら、行きつく先は破滅しかないでしょう。

 

暴力に晒され、抵抗すればするほど更なる暴力に遭わされ、逃れることもできず、それを際限なく続けられたら、もう壊れるしかなく、その人の、その人らしさは奪われ、その対象の特質が破壊され、その人の、その対象の存在が無くなってしまうでしょう。

 

「力」はある程度持っていなければ生きていけないし、存在できません。

ですが、力は適切に使わなければ「暴力」となり、生きるどころか、相手や他者、対象や周囲や社会や環境を傷つけつぶし、最後には自分も含めあらゆるものの存在を脅かす脅威となっていきます。

 

なので力は付けるとともに、「有効に」使いこなすための制御能力こそ身につけなければなりません。

成長や、調和や、存在のために。

ですが社会では、制御能力を身に付け適切に有効に力を発揮することより、権力を持ち、そして暴力でもって、あらゆることを優位に自分の意なままにすることの方が熱心のように見えます。

 

「暴力」はダメだと教えながら、自分よがりの価値観で、家庭の中で、学校で、職場で、社会で、しつけと称し、指導と称し、強くなるため、、業績を伸ばすため、平和のため、と美しい名の言い訳を隠れ蓑にして、いかにその対象を成長どころか、つぶし壊しているか、この矛盾。

暴力容認のなにものでもありません。

 

「暴力」はいけないと、みんな知っているのに。

 

 

                   ひろこ


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知り合いが、「困っている人の相談を聞いているんだけど、不思議に思うことがあるのよね」と言います。

「どんなこと?」と聞くと、「困っているのに、本当に悩みを解決したいのかなぁ?」と言います。

「えっ?だって困っているんだから、解決したくて相談しているんでしょ」と言うと、「そうだと思うんだけど、あえて自分で苦しむようなことをしているようにみえちゃうのよね」と言います。聞いているこちらがはてなマークはてなマークとなります。

 

解決策的なことを提案すると、なんだかんだと「ダメ出しをするのよ」と言います。

例えば、その困りごとに「〇〇したら、△△してみたら」と言っても、何かと「それは××だからできない」「それだと□□だから無理」「そんなことしたら~になって…」などと言うんだそうです。

なので、解決を優先するというより、自分の中での絶対条件があって、その条件が成立した上での方法でなければ、本人にとっては解決策にはならないはてなマークみたいな感じがすると言います。

 

なるほど、それで本当に解決したいと思っているのかと感じてしまうということだったんですね。つまりそれは、解決というより自分の思い通りにしたいはてなマークということになるのでしょうか。

 

自分のその妥協できない条件をちょっと何とかすれば、その悩みの解決はそれほど難しくないのに、条件を付けるがゆえに問題が難しく複雑化して解決に至らない、悩み続ける堂々巡りになって、返って悩みをこさえちゃってるように感じると言います。

自分の妥協できない条件を取っ払えないから、悩みになるはてなマークと言えるのかもしれませんね。

 

先日も、ある人にとっての「正しさ」は厳密であり、その正しさから少しでもはみ出ると正しくなくなるというようなことを書きました。

悩み解決にあたっての条件も、自分の考える厳密な正しさも、その人にとっては絶対に譲れない、妥協できないことなのでしょう。

それは、その人らしさであると同時に、それを優先しようとうするあまり、生きにくさや、周囲との関係で軋轢や悩みになりやすいのかもしれません。

 

自分の中の条件や、自分のこだわる価値観を取っ払て事に当たれると、すごく気持ち的にも、生き方的にも『楽』というステキな要素が加わるように思うのですが、そう思ってできれば誰も苦労しない、悩まないってことですかね。

ウ~ン、自分でこさえる悩みかぁ、できれば作りたくないなぁ~。汗

 

 

                  ひろこ

 


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昨日、メンバーの一人と事務所近くに1週間ほど前にオープンしたお店にランチに行ってきました。

ランチメニューは素材のお肉にこだわった、自信あるメニュー、ポークジンジャーたった1つです。

厚手のお肉が柔らかく、ジンジャーがきいて、とてもおいしかったです。

 

お肉の付け合せにザワークラウトとサラダがついていて、サラダには自家製の、これまた人気の高い自慢のドレッシングをと勧められました。

そのドレッシングは玉ねぎをベースによく利かせたものなので、玉ねぎベースのドレッシングがお好きな方にはお勧めです。

 

ところで皆さん、五葷(ごくん)と呼ばれる野菜をご存知でしょうか。

ネギ科ネギ属などの野菜で、仏道修行の際に三厭(さんえん)、すなわち獣・魚・鳥の肉食と、五葷:人間の元来持っている気を傷つけてしまう、刺激の強い特殊な野菜。肉食は殺生の理由から、五葷は人の気を乱すからとの理由で仏道では避ける食材のようです。

何を五葷とするかは、時代や地域によって異なるようですが、ニンニク、ネギ、ニラ、玉ネギ、ラッキョウ、などがそれに当たるようです。

 

余談ですが、これらはオリエンタル・ベジタリアンとも言うらしく、真偽は定かではありませんが、飛行機搭乗前に、機内食のオーダーでリクエストしておくと出してもらえると聞いたことがあります。本当ならすごいサービス対応力ですね。

 

で、私は五葷が体質的にダメなようなんです。特にネギ、玉ネギなど日頃出会う率の高いこれらは、子どもの頃からダメだったので、ただの好き嫌いと思っていたのですが、この頃はアレルギーかなと思っています。他の五葷も体調が悪いと食べられません。食べると具合が悪くなります。

 

ですので、人気のドレッシングを勧められたのですが、玉ネギがすごいのでかけませんでした。

するとお店の方が「アレルギーですか?」と聞いてくれて、「そんなところです」と答えると、謝ってくださり、別の小皿にわざわざマヨネーズを出して持って来てくれました。

 

とても気を遣ってくださり、おいしく、心地よく食べてもらいたいという気持ちが伝わって来ました。

ドレッシングが野菜にすでにかかっているのであれば最悪なのですが、瓶にスプーンが添えられていたので、かけなければいいんですね。

ネギや玉ネギが入りそうだと思うメニューの時には、注文の際に入れないでともお願いします。ですので今回は事前に伝えてもいませんし、サラダにかかってもいなかったので残すこともなく、食べることができました。なのでお店の方が謝る必要もないですし、とてもおいしくいただけました。

 

ですがお店の方は、不意なお客様の不都合、おいしく食べることができないことに少なからず心を痛め、臨機応変に少しでもなんとか心地よく食事ができないかと心を砕き、マヨネーズというイレギュラーな対応を、今できることとして、してくださったのだと思います。

 

何か嬉しいですよね。

初めて行ったお店でこのような対応をしてもらえるのは。

相手に関心を持ち、小さなことに気づき、相手が心地よくなることを惜しみなく、ごく自然な立ち振る舞いでしてくれる。

ありがたいですね。気持ちがホッコリしました。ラブラブ照れラブラブ

 

本当においしく、気持ちいいランチのひと時を過ごせました。感謝です。

こんな心までもおいしいランチ、皆さんも味わってみませんか。

 

               ひろこ

 

お店は、『 GRIP PROVISION 』です。 http://grip-provision.com/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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正しいことをしたり、言ったりしているのに、反対する人がいる。

「なんで?」と思ったりしませんか。

 

通常「正しい」ものは、皆に受け入れられるものと思っているからではないでしょうか。

だから、その正しいを素直に受け入れなかったり、抵抗すると、受け入れなかった方が悪いとか、おかしいとされ、「怒る」とか、「なんでだ」と責められたりします。

 

「正しい」はいい事だと思います。

ですが誰もが100%完璧に正しいと思うには厳格厳密でなければなりません。

ですから「正しい」は許容範囲が狭いんです。白か黒かでグレーゾーンが無いんです。

「まぁまぁこれくらいは大目に」というのが許るされないんです。少しでもはみ出したら、正しさを主張した人にとっては正しくなくなってしまうんです。なので自分の正しいに抵抗を少しでも見せることに理解できない、正しいの許容範囲が違うことや、多様な正しいがあってもいいというのが理解できないようなんです。

 

基本「正しい」とされることは大多数の人が賛同するでしょう。

その正しさが力を持つ人の主張だったら、「まぁまぁこれくらいは…」というのは許されず、その正しさを正確に厳密に遂行しなけば、力あるその人に責め立てられ、攻撃され、その考えに屈服するよう、強制的に受け入れさせられたりします。

 

DVをする人たちのほぼ100%の人達は、そう思っているように感じます。

自分の考えは正しい。なぜそうしないんだとパートナーを責め自分の考えに賛同するよう強要します。

パートナーたちも、その意見が完全に間違っているとまでは思はないけれども、ただ、もう少し違う考えもある、もう少しゆるくてもいいのではないかという思いがある。

そしてそれは決して「正しくない」ことではないのです。正しいんです。ただ主張している正しさとは若干違う、寸分違わぬ正しさではないということなんです。

ですがDVをする人の「正しい」は唯一無二でそれ以外は在ってはならないもの、在ったら何が何でも、今どきの言葉でいえば「排除」しようとするのです。

 

それを私たちは「正しい病」と呼んでいます。病気ではないのですが、自分の考えは正しいのだから受け入れることが当然、そうしない方が悪者でダメ人間のように扱い、矯正させようとします。

あらゆる方法、暴力やコントロールを使って自分の考えと同一化するよう強要し強制することにとりつかれているようなので、正しい病と呼んでいます。

 

「正しい」というのは人の考えや気持ちのことですから、それを強要されるのは苦痛や苦悩が伴います。

そして「正しい」という大義名分を持っての行動は、自分の正しい考えをパートナーに受け入れさせることの完遂であり、それは善行で、達成感や満足感と自信の強化につながるでしょう。そしてそれは快感をともなうものですから繰り返されることになるのでしょう。パートナーの心はドンドン離れていきますが。

 

文章に書くと大げさですが、要するに自分の考えは、パートナーや家族を思っての良かれであって正しいことなのだから、それになぜ抵抗する。なぜ自分の好意を素直に受け取らないんだということの現れですね。

 

「正しい」「良かれ」「(誰々の)ために」はやっかいなんです。

だって、相手を思いやる、相手優位を装いながら、自分の価値観の押しつけの何ものでもないからです。

そしてそれに気づかないから、相手のためにと言いながら、相手が自分の言動を受け入れないとキレたりする。

自分を振り返り内省するのではなくて、自分の好意を無にする相手が悪い、となる。

相手のせいにする時点で、〇〇のためにではなく自分のためにしていることは明白なのにね。

 

それって本当に相手のためですかぁ、胸に手を当ててよく考えてみませんかぁと言いたくなります。

ああ、本当にやっかいです。ふぅ~

 

                        ひろこ