先日、SEDAに取材が入りました。

 

テーマは、災害時の避難所における女性支援です。
 

SEDAは、2011年3月11日に発生した東日本大震災で、福島県双葉町の皆さんが埼玉県さいたま市のさいたまスーパーアリーナへ避難された際、女性支援のボランティア活動に参加しました。
 

当時は、SEDAのメンバーをはじめ、女性支援や子ども支援などに携わる仲間とともに「全国女性相談研究会」という任意団体を立ち上げ、支援活動を行いました。
 

その後、避難所が埼玉県加須市の旧騎西高等学校へ移った後も定期的に活動を続け、さらに福島県浪江町の全仮設住宅を2回巡回するボランティア活動を行い、一連の支援を終えました。
 

今回の取材では、その当時の経験についてお話しさせていただきました。



東日本大震災から15年以上が経ちました。
 

災害支援は当時に比べて大きく進歩し、避難所運営も改善されています。

それでも、あの時に私たちが見たこと、感じたことは、今も忘れてはいけないことだと思っています。
 

2011年当時は、避難所のプライバシーへの配慮はまだ十分とは言えませんでした。

避難された皆さんは、大切な家族や家、仕事、日常を失い、大きな不安を抱えていました。
 

それでも、

「暖かい場所で過ごせるだけでありがたい」

「電気があるだけでありがたい」

そう言って何度も頭を下げていました。
 

冷たいお弁当を受け取るだけでも、「ありがとうございます」と感謝される姿を見て、胸が締め付けられたことを今でも覚えています。
 

昨日まで普通に暮らしていた人たちが、自分のつらさよりも周りへの気遣いを優先している。

その姿がとても印象的でした。
 

避難所では、女性が担う役割も非常に多くありました。
 

家族の洗濯をするために長い列へ並ぶ。

家族全員分のお弁当や生活用品を受け取りに行く。

子どもの世話をする。
 

そうした役割の多くを女性が担っていました。
 

一方で、全国から多くのボランティアが集まりました。
 

もちろん、多くの方が善意で活動されていました。

しかし当時は、ボランティアの受け入れ体制も十分整っておらず、身元確認も現在ほど厳密ではありませんでした。
 

誰がどのような目的で避難所に入っているのか、把握しきれない状況もありました。
 

そのため、「子どもと遊ぼう」「勉強を教えてあげる」「危ないから手伝うよ」と善意を装いながら、不必要に子どもの体へ触れるような事例も耳にしました。
 

こうした問題は、阪神・淡路大震災の頃から指摘されてきたものでもあります。
 

近年では、避難所における性被害や、女性がケア役を当然のように担わされる問題も少しずつ認知されるようになってきました。
 

今回の取材でも、そのような現実についてお話ししました。

 


そして、取材を受けながら改めて思ったことがあります。
 

それは、

「遠慮が二次被害を生んでしまうことがある」

ということです。
 

避難所では、多くの方が

「みんな大変だから」

「自分だけが我慢できないわけではない」

そう思ってしまいます。
 

だから、不便さや困っていることがあっても、声を上げられません。

でも、その不便さは、自分だけが感じていることではない場合がほとんどです。

 

実際、私たちが活動していた時も、

「本当はこうしてもらえると助かる。」

そんな思いを持っている方がいました。
 

でも、ご本人は言いづらくて言えませんでした。
 

そこで、「私たちが代わりに伝えましょうか。」とお聞きすると、

「ぜひお願いします。」

と言われました。
 

私たちは避難所の運営側へ改善をお願いしました。
 

すると環境が改善され、その方だけではなく、多くの避難者の方が以前より安心して生活できるようになりました。

とても感謝されたことを覚えています。
 


支援する側は、一生懸命活動しています。

でも、当事者ではありません。
 

だからこそ、気づけないことがあります。
 

伝えていただいて初めて、「そうだったのか」と改善できることもたくさんあります。
 

もちろん、すぐにはできないこともあります。

それでも、声を上げることには意味があります。
 

それは、自分自身を守るだけではありません。

同じ避難所で暮らす誰かを守ることにもつながります。
 

そして、その経験は次の災害へと受け継がれ、多くの被災者を助ける知恵になっていきます。
 

自然災害は、いつ誰の身にも起こり得ます。

だからこそ伝えたいことがあります。
 

被災したとき、困っていること、不安なこと、不便なことがあれば、どうか遠慮しすぎないでください。
 

声を上げることは、決してわがままではありません。
 

その一言が、自分を守り、隣にいる誰かを守り、未来の避難所をより安全な場所に変えていく力になります。
 

私たちが東日本大震災で学んだ大切なことを、これからも伝え続けていきたいと思います。

 

 

 

 

本日は、天候具合を考慮し、急遽臨時休業とさせていただきます。
間際のお知らせになってしまい、大変申し訳ございません。
ご了承いただけますよう、お願い申し上げます。

SEDA

 

暴力はダメ。
これはあらゆる人が知っていることです。

DVも暴力になります。

虐待も暴力です。

暴力はしてはいけないことです。
今回、プロ野球の巨人軍監督が娘さんへの暴力で監督を辞任するという事件が起きました。

いろんな声が上がっていますね。

それは元阿部監督がプロ野球人として立派な実績を多数築きあげたからでしょう。

そして娘さんから今回の件に関しての思いが語られたことで、さらにいろんな方面、AIのこと、児相のこと、警察のことなどの意見も多く語られていると感じます。

・家庭のことだから

・プロ野球界にすばらしい貢献をしている人だから

・娘さんもここまで大事になることを望んでいないから

などなどのご意見もあるようです。

ですが、今回の事件の「本質」「暴力を振るった」ということだと思いませんか。


そして事実として逮捕されたということ。
 

その他の誰かの心情や気持ち、実績、事情などいろんな要素がありますが、本質からすればサブ要素になると個人的には思います。

DVでもパワハラでも虐待でも暴力。

それらをする側はするなりの理由があるのでしょう。

ですが、理由はあるからと暴力に行き着く?

そこが問題と思います。

 

暴力を振るった。それはゆるぎない事実です。


冒頭にも言ったように、暴力はダメです。
法的にも触れる可能性が大で、今回がまさにそうです。

今まで夫婦間や家庭内での暴力には他者は介入できませんでした。

 

法は関知せずで蚊帳の外でした。

でもそのために命を落とす人が出てしまっていたんです。それも1人2人ではない。


だから法律が成立した。

 

DV防止法、虐待防止法ができ、今まで親密な関係の間柄の暴力に介入できなかったのが、法を介入させる必要性が認められたということです。

夫婦だから、親だから、家庭だからと関係性も

能力が高いから、高い地位についているから、実績を出したから、とかも

 

考慮したくもなります。

が、考慮しない厳しい見方の方が、感情ある人にとっては難しいのかもしれません。
 

暴力をしていい条件や許容は通常生活ではありません。
(犯罪による処罰、正当防衛、人命救助のための破損破壊行為などの通常生活でない例外もありますが、正当防衛も過剰防衛となれば認められません)

 

正しさを教えるためのしつけやスキルアップのための体罰など、美名の暴力は今や通用しない世の中になってきました。

DVをした人がよく言う言い訳に「俺を怒らすからだ」というのがあります。

 

怒るのはいいんです。人の感情ですし、怒る何かがあったのでしょう。

 

怒ったからと「暴力」を振るうのはどうなのでしょう。
 

違いませんか。

怒りが暴力に変換される? されやすい要素は確かにありそうです。

ですが、怒りと暴力はまったく別次元のことではないですか。

怒りがあっても、暴力でない現わし方をする人も考えもあります。

「○○があった。だから暴力をした」これ、通じるものでしょうか。

暴力をしたことに、尾ひれや余計な情報を糊塗して、暴力を割引するような引き算をしてちょっと許してもいいんじゃない?

 

そういうのありですか? やはりいけないのでは? そういう世の中に進んできたのではないですか。

 

普段はいい人、立派な人、推しの人、お世話や恩義のある人など、信じたくないし何かの間違い、出来心などと引き算をしたくなります。

 

こと「暴力」に関しては、関係性があればなおさら、引き算的矮小化をしたくなると思います。

普段あんなに穏やかなのに、何か事情があったんだよ。と。それもわかります。

ですが、
「暴力」は、どんな関係性であれ、相手への不当な侵害と破壊と屈辱と人権侵害です。

してはいけないこと、ダメなこと。

わかっているのに、スパッと切れるようで切れない思い…。

 

これって何でしょうね。暴力はダメって知っているのに、でも…、だけど…、事情が…と


その揺れをしっかりと理解し自覚しないと、暴力の悪意性を割引きし、引き算しトーンダウンさせ、オブラートに包んでしまうのではないでしょうか。

暴力は自分の思い通りにするのに、即効性があって魅惑的です。


即効性の効果は絶大です。だからその経験は成功体験になります。

 

また同じような状況、自分の感情が爆発しコントロールできなくなった時、手っ取り早くその効果で思い通りになるから、方法として使いやすく癖になりやすいです。

「暴力」は自分の感情や自分の思いを簡単に手に入れられる手段です。

ただしその手段が、相手を傷つけてのことなんですけど。

自分の気持ちも思いも大切なものです。

だからと、相手を暴力で傷つけ痛めつけて手に入れるものではないはずです。

暴力以外の方法で、自分の気持ちも思いも大事にできるはずです。

 

暴力を振った。その人を知っていればいるほど暴力を振るってしまったことに対して割引きをしたくなります。

 

そこが危険で甘くて厳しい、そして難しさがあって揺れになってしまう。

 

1つ暴力の事象をとっても、個人の様々な考え方の違いが出て、人間味の出るところと言えると思います。

 

ただ、やはり「暴力」に対して、いろんなことを考慮して割引するのは、どうなんだろういう思いを、個人的にはどうしても捨てきれません。


やはり
暴力は、ただただ暴力ではないでしょうか?

 

だからと、暴力を振るってしまったから、もう終わりというのではありません。


このままでいいわけないなら、暴力を振るう自分を改め、暴力をしない人に変わる歩みをしていかなければいけないのではないでしょうか。

人は気づき、学び、自分事として新たな価値観を身に着け、実践し続けていくことで変わっていくことを実証していかなければいけないのではないでしょうか。

 

それが大事なんだと思います。

そうでないと暴力から離れることが難しく、暴力の肯定、暴力の是非、暴力の割引、暴力の反省、暴力の封印、暴力の許容が、いつまでもあいまいになってしまうと思います。

 

個人的には、今回、暴力の割引きみたいな雰囲気がとても気になっています。

 

皆さんは、今回の件でどのようなことが気になったでしょうか。

いろいろなことを大いに考えさせられたのではないでしょうか。

 

   ひろこ
 








 


 





 

昨日のことです。

「水曜日はいつも何かやっているんですよね。どんなことをしているんですか」と、同僚の新人の若い女性に聞かれました。

 

「女性支援の活動をしているんだ」

「女性支援の活動って、女性たちにどんなことしているんですか」と続けて聞かれました。

 

「女性たちにもしているけど、男性たちに『DV加害者更生教育プログラム』というのをやっている」と話しました。

「すごい~」と言われました。(笑)

 

別にすごくないんですけどね。

あまり聞き慣れない活動ではあるかもしれませんね。

 

説明をすると、どんどん質問してきてくれるんです。
嬉しかったですし、質問するってことは興味を持ってくれているってことかなと思いました。

 

質問に答えることで、二人の関係の中でどういうことだったんだろうと思っていたことが、質問したことで少し解けて、参考になったのかなと思いました。


そうであれば、さらにとても嬉しいなと思いました。

DVというと身体的な殴る蹴るなどが一番最初にイメージされると思うのですが、言葉の暴力、貶めたり、傷つけたりするような言葉も今はDVとして定着してきました。

今日話していて「身体に当たりそうで当たらないギリギリのところに物を投げつけてくる、これも暴力なんだよ」と言ったら驚いていました。

「そうなんですか。されたことあります」と言っていました。

物を投げただけで体にはあったてないのでケガをしたとかではなくて、ちょっと危なかったというか怖かったというか。

 

投げた方も別に実際ぶつけたわけではないし、ちょっと驚かせただけとなっていると思います。

投げた方も投げられた方も実際に起こっている事の重大さをよくわからずに、軽い扱いにしてしまうことは多々あります。

 

なので質問の彼女も投げられたことありますという受け止めの程度で、暴力をされたとは受け止めていなかったんですね。

彼女は、自分に起こっていたことが本当は暴力なんだと知れたことが、「えー」と驚きとともに新鮮だったようです。


「そうなの?」「私に起こっていたあのことは暴力だったの?」と。

 

怖い目に遭わされたとは感じていて、心地よい体験ではなかったのでしょう。

 

だから「それは暴力なんだよ」と言うと、「そんなことない、それほどのことでは…」と否定するのではなくて、

 

「そうだったんだ」とジワジワ納得していくような感じでした。

新しい捉え方というのか、考え方みたいのを知れたので、何か興味深いなと思ってくれたのか、じゃあという感じでどんどん質問してくれました。

親密な関係の中での暴力は、堅苦しい定義的にあてはめればDVとなるけど、何となく痴話ゲンカ的な扱いになってDVという重苦しい受け止めは通常しないですよね。

なので最近私たちSEDAでも、実質はDVだけど、認識としてはちょっとした意思疎通の悪さ、関係の軋み、痴話ゲンカや緊張みたいなものが実像かなと思っています。

彼女から「男性たちはDVって認めないんじゃないですか?」「プログラムに参加してほしいって女性からは怖くて言いにくいんじゃないですか?」と次々聞かれました。

 

「そうだね。自分がDVしてるとは思ってないから認めないね」
「うん、女性からはやっぱり怖いし危険だからプログラムに行ってと言えないね」

 

だから、そんなときは女性にDVのこととか、今の自分の状態、状況はどうなっているのかを学んでもらっている」と答えました。

「男性が自ら変わろうと思ってくればいいけどそうじゃないから、まず女性が学んで理解進めてもらっているんだよね」と。

 

女性がいろいろ学んで変わると今まで暴力だけど暴力と気づかず放置されていたのが、

 

これはひょっとして暴力?と気づくと、暴力が起こらないようにするための言動が少しづつわかってきます。

そういう小さい変化をしていると男性も怒ったり、不機嫌になったりすることが減っていきます。

 

で、「アレっ?」と。「今まではこういうことで怒っていたのになぁとか、もの投げたりしてたよなと、最近そうしなくなったなぁと」

そんなこんなで、急がば回れで、女性が先に学んで、それに影響されて男性自身も自分のことを見つめ直してみれるようになる?

 

そこに気づきだすと、これは?あれは?と気になりだし、二人の関係ちょっと変わってきてる?となり

 

どこかのタイミングで、「何か、ちょっと学んでみない?」二人でと…。

 

女性が学んでいい関係になりつつある現実があるので、その段階になったら女性も男性にプログラム参加を言い出しやすいのではと思います。

新人さんに質問されるままに女性支援のことを答えていたんですけど、答えは興味深かかったようで「へぇ~」「ふ~ん」「なるほどね」となることが多かったようでした。

学んでみると興味深いし、身近に感じるし、参考にもなるし、役立つことも多く知識が増えると思います。

 

実際やってみるとすぐすぐではないけど、何回に1回は、「あっ、効果あった」「いつもならここで暴力めいたことになりそうなのにならなかった」などを感じられるのではと思います。

なので、今日の新人さんとの質問トーク体験を通して、

 

女性の皆さんには、二人の間で起こっていることで、「ウン?」「これってどういうこと?」と思うようなことがあれば質問してほしいなと思いました。

気軽に質問してください。
メールに質問をくださったら返事します。
もちろんお電話でも大丈夫です。


◆Mail:  seda.dv@gmail.com
◆Tel : 03-5924-5277  水曜日13:00~18:30 (←以外の時間帯は留守電)



聞きたいことがあって、それに答えることで少しでも気持ちが楽になるのなら、それはとても嬉しく思います。
 

もちろん、男性のからの質問も大歓迎です、お待ちしています。

最近、彼女との関係がギスギスしてきたとか、彼女は何も言わなくなったとか、何か彼女といると常にイライラしてしまうとか。


日常の関係性の中で何か引っかかって気になってしまうということがありましたら、どなたでも気軽にお問い合わせください。

 

お返事させていただきます。

お待ちしています。






 

GWが過ぎて、週末を迎えました。

休みボケはありませんでしたか。

私は休みボケすることを予測して、休みに入る前に休み明けにまずすべき予定を付箋に書いてカレンダーに貼り付けておきました。

 

正解でした。やるべきことを忘れずにすみました。よかった~。(-_-;)
 


ブログは前回のユーチューブの続編ということで、また少し一緒に考えたいと思います。

夫は結婚して、理想の家庭生活? 本当のところはわかりませんが…

パートナーを思い通り?理想としていたパートナー像、家庭での役割を果たしてくれる妻というか、そうするように教育したと言っていいのでしょうか?

満足まではいかないにしても、まずまず思い通りの関係性と家庭を担ってくれる妻になったと思っているのではないかと、動画上からは読み取れます。

 

夫はやりたい放題できていそうに見えますが、それでも文句はありそうです。
そうなると、被害者意識が出て来そうです。

今回のユーチューブでは、夫の求めている家庭の妻としてかなり過重労働的に尽くしていると思います。

 

妻は本当は幸せなんだろうかとどうしても疑問が浮かんできてしまいます。

ただ妻は夫を愛しているしこれからも支えていきたいと言っているので、他者はその言葉通りに受け取るべきで、何ら思う必要ないはずですが、なんかモヤモヤ感が残ります。

なぜでしょう。


あまりに夫が自分勝手で、同じ家庭内に居ながら一人自由奔放で妻や子ども、さらに実家や妻の実家にも何も思いやりあることを一切しないからだと思います。

夫は家庭内で何もせず好きなゲームをしているだけなのに、それでも被害感が強いはずです。


なんて言ったって、夫から言わせれば望む理想形になっていないからです。

要するに自分の思い通り、理想通りに具現化してくれる妻を見つけて生活することが、結婚と思っているからではないでしょうか。

パートナー、妻はそのためのツール、ピースと言っていいように思います。(ちょっと言い過ぎかもしれません)

恋だの愛だのはまったく無く、嫌いでなければいい程度なのではと思います。

今回のユーチューブの夫は、妻はかなり夫の希望通りのことをこなし、満足ではないけれど、この程度やってくれるならとまあ許せる範囲として結婚生活を続けている。

妻は、夫が望んでいることをし、すれば喜んでもらえるということで愛されていると感じ結婚生活を続けていると感じます。

結婚生活は成り立っているのですが、夫婦ともに本当に心から自分も相手も幸せ、家族も幸せと感じているんだろうかと思ってしまいます。

この夫婦間で「ありがとう」という言葉が行きかうことはあるのだろうかと思ってしまいます。
 

「ありがとう」って感謝の言葉ですよね。
お互い感謝することはあるのか、特に夫は妻に対してはないんだろうなって思ってしまいます。

夫は、今回は俺の思い通りにできたようだな、「まあいいだろう」
妻は、今回やってみたことは文句を言われなかった、「ああよかった。ほっ」

そんな感じなのではないかと思ってしまいます。

「まあいいだろう」「ああよかった、ほっ」
こういう関係って、何かとっても空虚に感じます。

うつろで寂しく、とても幸せそうには感られません。
本当にお互い幸せなんだろうかと、どうしても思ってしまします。

お互いが何かうわべの満足で、これが夫婦関係とごまかしているような感じがしてしかたありません。


夫婦生活は、重ねていく毎に、愛情や深い思いやりが重層的になって、さらに互いを大事にし、掛け甲斐の無い存在となっていくと思うのですが、このご夫婦にはそういう感じがしません。

男性=夫の心の貧しさを感じずにはいられません。
「無料の家政婦を見つけないと生きていけない」と、堂々と言ってしまうんですよね。

愛しているかと問われると、「まずは自分を愛し、次にゲーム、3番目に妻」と平然と答える人です。

それでも妻は「夫を愛している、これからも家族を支えていく」と言うのだから、それを周囲が何も言うことはないのですが…。

夫からすれば、妻という名の無料の家政婦を星の数ほどいる女性の中からうまく見つけたと言ってもいいのではないでしょうか。

こんな奇特な女性はいないと思いますが、なぜかそういうパートナーが見つかるんですよね。

この男性にとっては、対等平等で一緒に幸せになろうという思いでの結婚ではなく、生きていくために無料の家政婦を見つけなければという目的の結婚。

いわゆる基本的人権という概念は、思いっきりすっ飛んでいると思います。

ましてや対等平等、互いを尊重なんて言う概念は聞いたことすらないのかも…?

このような関係性は、妻がこういう生活に疑問を持たなければ続いてはいくでしょう。

ただし、妻が関係性の中での自分の立ち位置とか、夫の幸せが自分の幸せ、という考えに「ウン?」と何か違う?が芽生えた時、この結婚生活はどうなっていくか未知数です。

小さな疑問が芽生え、それから妻のなにがしかの考えや決断、この関係性を続けるにしろ、解消するにしろ何かが変わることになるでしょう。

続けるならこうしましょうと条件が付くかもしれませんし、関係解消になれば全く関係が切れます。


SEDAに関係する1つの考えとして

 

関係を続けたいのであれば、妻から夫に今までの考えを変えるようにと更生教育プログラムに参加するように言われたらどうなるか。

①いやいやながらプログラムに通う

②プログラム参加拒否、参加は無理と離婚

 

ちなみにSEDAの場合、妻は更生教育プログラムに参加して夫が変わってくれることを願うと思いますが、SEDAの更生教育プログラムは妻が希望すれば参加できるというものではありません。

妻の要望通り参加して変わっていってもらいたい気持ちはやまやまですが、

 

夫が参加する意思がないまま、妻を失いたくないために頑張ってると見せかけのお芝居、参加アリバイ作り、参加証明的時間つぶしのような参加、要は自分を変える姿勢がない場合の参加はこちらからお断りしています。

プログラムに参加するご本人に本気のやる気、変わる気がないのに、ただ参加の形だけ繕って何も学ぶ気が無い人の参加は、他の本気で変わろうとする参加者にとっては邪魔ですし、悪影響にしかならないためお断りしています。

プログラムで自分を変えよう、今まで何十年も持っていた考えを変えていこうとするには相当な覚悟が必要です。

正直、今回のユーチューブの中の夫は自分を変えようなんて気はサラサラ無いでしょう。さらに、プログラム参加なんて毛頭ありえないでしょう。

あり得ないことですが、仮にSEDAの更生プログラム参加希望をいただいても、正直、こちらもお断りすると思います。

 

変わる気のない人に講釈を垂れたところで、馬の耳に念仏、犬に論語です。

SEDAとしても、本気で変わりたいと思って参加している方々に対してとても無礼なことをしていると考えます。

 

プログラムに送り出し変わることを願っている妻やパートナーさんたちに対しても、そのような形だけのやる気の無い人を参加させることは、学びが停滞したり、滞ったりすることになり、変わることを応援しているパートナーの方たちに対しても裏切り行為になると思うからです。

プログラムに参加する方々は妻やパートナーさんを大事に思い、やはり失いたくない、いい関係作りを学び、関係性の再構築を願っている方々です。

 

そして、妻やパートナーさんも変わろうとする彼に対して、期待をかけ協力し応援をしています。

更生教育プログラムに参加しいい結果が出るのは、ご本人とパートナーさんのお二方がともに今までの自分たち自身の関係を見つめ直し、そこから気づき、考え、学び、言動の変化を重ねていき、成長が反映されることで結果が出ます。

正直、今回のユーチューブに出ていた夫が変わるのは相当難しいです。

正直、無理と言ってもいいかもしれません。

今のままの夫でいいという妻であれば、夫婦関係や家庭はこのまま何事もなく続いていきます。

もし妻が別れたいと言っても、夫は別れてくれないでしょう。

夫は妻に若干の不満はあっても、大概のことは望み通りにつくしてくれる妻ですから手放そうとしないはずです。

このような自己中な論理や価値観が強く、支配的で自分の思い通りにならないと気が済まない人が、妻の要望や思いをくみ取って、それを叶えてあげようとするとは考えられません。


ましてや話し合いなど成立しません。

力、暴力で黙らせる、従わせるという短絡的な方法に出るのではと簡単に予想がつきます。

 

何が何でも、どんな方法をとっても自分の思い通りにしようとすると思います。

そして被害者意識です。

暴言や暴力を振るっているのは自分なのに。加害者ではなく自分の方が被害者という意識です。


俺にこんな嫌な思い、面倒なことをさせやがって。

俺はこんなこともやってやってるのに、なんだお前は、と妻が悪いとなります。

理不尽な考えと思うのですが、彼の中では一貫していると思いませんか。

理想の夫婦関係、今までその理想に近い形が問題なく維持され生活できていた。

それなのに、その状況を壊す妻が悪い。だから夫からすれば、自分は被害者。

彼の論理の中では正当であり筋が通っているんです。

 

妻は働き家計を支える。自分は働かずに妻から小遣いをもらい、そして少ないと文句を言う。

子育てもしない、料理もまずいと。

 

この動画の中では、夫は妻のことを、自分に高望みをして嫁いできた。

この結婚は人生最大の失敗だったといういうのです。


失敗とした思いでいるのに結婚生活をしてやっているのだから、自分に尽くすのは当たり前だという考えなのだと思います。


夫の認識では被害者意識となり、被害者意識があると自己意識にばかり向き自分に執着します。だから変わることは難しいでしょう。
 

なぜなら、悪いのは相手だから、なんで俺が妻を思いやらなければいけないのか、と。


自分を振り返ったり反省する気はありませんし、したところで思い至りません。
こんな不遇な目にあう理由は自分にはなく、相手がそう仕向けたとなります。

 

思い通りにならない被害者意識で、日がな一日ゲームに明け暮れ、ご飯がまずいと文句言う結婚生活。

 

こんな不幸な結婚と思っているこの夫も、幸せを掴めず、それを人のせいにするかわいそうな人と言えるのではないでしょうか。

 

夫も夫なりに幸せになりたいと思っているはずなのだと思います。

その幸せというものについては、人それぞれで、その人、個人のもので、いい悪いではありません。

夫からは、結婚生活があまり幸せではなく、なんか不満を感じるのは、自分勝手な自己中心的な考えをする自分が原因だという発想は出て来ないでしょう。

 

妻や周囲の人、自分以外の人や事が原因だから、それらを変えて自分の思い通りにしようとすると思います。

だから変わりません。

むしろ自分を変えようとするものに嫌悪し、絶対的な拒否をすると思います。

 

この先、妻が彼を嫌いではないけど、もう無理、限界となって離れようと思ったら別れるのがいいのではと思います。


彼に何か言われて決心をぐらつかせることなく、自分の気持ちに素直に従い行動するのがいいと思います。

彼は彼で、妻が悪いと思い、もうこんなやつとは一緒に居られないと思ったら、妻の気持なんか考えもせず猶予も与えず離婚や別れを切り出し、それをすぐにでも押し通すでしょう。

そして別れて、自分の思い通りになる次なるパートナーを探し、自分の価値観に合ったというより、従順に従うパートナーと家庭関係を再構築しようと望み、そうしていくでしょう。

ただし、そういう理想の関係や家庭の在り方を作れるパートナーが見つからないとなると、今度は自暴自棄になって、こんな苦渋や思い通りにならないのはなんでだ、自分以外、身近な周囲の人や世間が悪いとします。

暴れまくったり、八つ当たりしたり、身も心も生活も荒んでいくかもしれません。


そして、さらに自分をこんな目に遭わせた今までの妻や人間関係、世間をさらに恨むかもしれません。
悪くすれば犯罪です。


良くすれば、こうなってしまったのは「ひょっとして自分のせい?」とやっと自分の在り様に疑問を持ち、自分にベクトルを向け振り返れた時です。

 

恐ろしいことですが、
最悪な場合は無差別殺人や、衝動的な事件事故となってしまうかもしれません。


もっと個人的視野でねじれると、あいつが悪いとストーカー的な執拗な恨みを増幅させ、巻き込んでの事故事件となることだってあるかもしれません。

一方で、ここまで窮地、落ちぶれてしまったのは自分のせいなのか? 自分を何とかした方がいいのか?となったら、その時こそ変われるチャンスです。

 

望むのであれば、更生教育プログラムの効果が有効に働くまたと無いチャンスになると思います。

自分の外、誰かを何とかしようと操作したり、支配したりすることを手放そうとし、新しい物事への対処方法を見つけようとする気持ちが芽生えて来て、それに向けて意欲もあると言えるからです。

「ひょっとして自分なのか?」と思えるか、思えないかの思考の転換が非常に大きな意味を持ちます。

相手を妻を思いやること無く、窮屈にさせ、限界と失望と絶望を感じさせてしまっていたと。

それは夫である自分なのかもしれないと。

 

誰もが幸せになりたいはず。誰もがです。


自分が幸せになりたいなら、相手だって、私も幸せになりたいと思っているはずです。

二人の大事な関係性では片方だけに偏る幸せではなく、二人でバランスを取って、二人で幸せになるをやっていくことが生涯を通して、愛おしい関係性にし続けていけることになるでしょう。

 

今回、長すぎましたね。

最後までお読みくださって、ありがとうございます。