
1979年の甲斐バンドの締めくくりは、日本武道館でした。
12月21日、22日の両日、甲斐バンドにとって初の武道館公演が行われました。 当初1日の公演であったものが、チケット完売により追加公演が決定し、2日間連続の公演となったものです。
僕は初日の21日に行くことができたました。 現在でこそ、日本人アーティストが武道館でライヴをやったからといって誰も騒ぐことはありませんが、当時は特別なことだったのです。 コンサート会場としての武道館と言えば、海外の大物アーティストのための会場と言ってもいいぐらいでしたからね。
あの頃、武道館公演で記憶している日本人アーティストは、矢沢永吉、吉田拓郎、原田真二ぐらいでしょうか。 1971年に、ザ・タイガースの解散コンサートというのもあったようですが、これは憶えていません。
あの日の記憶は鮮明です。 僕にとっての初めての武道館は1976年のカーペンターズのコンサートでしたが、 そのときはとにかく会場の大きさに驚きましたね。 この年4回目となった甲斐バンドのコンサートを前にして、「こんなに大きな会場で演るなんて、甲斐バンドもビッグになったんだなぁ」 と、実感したこともはっきり憶えています。
1. きんぽうげ
2. 感触(タッチ)
3. テレフォン・ノイローゼ
4. シネマ・クラブ
5. 異邦人の夜(シスコナイト)
6. らせん階段
7. 港からやってきた女
8. 三つ数えろ
9. 安奈
10. 噂
11. 嵐の季節
12. カーテン
13. 氷のくちびる
14. ポップコーンをほおばって
15. LADY
16. HERO(ヒーローになる時それは今)
-アンコール-
17. 翼あるもの
18. 最後の夜汽車
19. 100万$ナイト
(1979年12月21日 日本武道館 セットリスト)
武道館という大会場を意識してか、ホーンセクションにギターがもうひとり加わっての9人編成でのライヴ演奏。 音としての厚みは増していますが、当時の甲斐バンドのシンプルであるがゆえのまとまりと勢いに欠けるのでは、という意見もありました。 ただ甲斐自身が言っていたように、甲斐バンドにとってのターニング・ポイントとなったライヴであったのは間違いないし、80年代仕様にこの時点をもって転じたとも言えるライヴであったと思います。
特筆すべきは、翌年 『100万$ナイト - 武道館ライヴ』 としてリリースされたアルバムではなぜかカットされた 「異邦人の夜」 が聴けたことでしょうか。 甲斐よしひろが西田佐知子のために書いたという曲です。
この年、テレビ出演を拒否したことが世間で話題となってしまい、そのことを歌にした 「噂」 という曲では、歌詞の一部を、当時の "テレビ歌番組" を象徴する存在の "ピンクレディ" と変えて歌っています。 当時の甲斐よしひろのマスメディアに対する反骨精神が見える曲です。
そして 「安奈」。 10月にシングルとして発売されたこの曲はヒットチャートを上昇し、「HERO」 に続くベスト10ヒットとなっています。 甲斐バンド初の武道館公演を自ら祝福する曲となり、クリスマス・シーズンに歌われた 「安奈」 としては、最初の年となりました。
安奈
翼あるもの
78年10月リリースのアルバム 『誘惑』 に収録されたこの曲は、続くシングル 「HERO」 (78年12月リリース) の前段とも言える曲です。 デビュー以来、大都会・東京でもがきながら活動してきた甲斐バンドが、自分たちのスピリットを明確に示した曲とも言えます。
「翼あるもの」(決意) → 「HERO」(突破) → 「タッチ」(加速) といった図式でしょうか。 70年代の甲斐バンドのライヴの中核を成していたのが 「ポップコーン」 「氷のくちびる」 だとしたら、80年代の甲斐バンドのライヴのそれは 「翼あるもの」 でしょう。
この曲の持つ有名なエピソードとして、事故で一時的に記憶を失った青年が、 病院のベッドでラジオから流れてきた 「翼あるもの」 を聴いて記憶を取り戻した、と言うのがあります。 当時新聞にも載ったので記憶されている方もいるでしょう。 作者の甲斐よしひろ自身は、それ以前からこの曲の持つ力を自覚していたと思いますが、「翼あるもの」 の持つそれを証明した出来事だと思います。
翼あるもの
演奏後の甲斐の語りが、80年代の甲斐バンドのプロローグとなっています。
甲斐バンドにとってドラマチックな年となった1979年。
"傷つき羽根折れた天使" "翼があることを知って怖かった" きみによって支えられてきた甲斐バンドは "翼あるもの" となり、「俺たちは80年代に行きます」 という言葉とともに次のステージに向かっています。

