母は 9歳までしか教育を受けていないので、すべてに於いて 低姿勢でした。
しかし、育った「女の子」のPTAへの 参加は 皆勤賞ものでした。
だから、役員に粋されて、毎年ならされていました。
自身が行けなかった 学校 !
そこで、果敢にトライする私を見て、応援してくれました。
なぜ? って・・・・・
実は 妹は 成績優秀で ずっと オール5 でしたが、私は、普通の出来でしたから・・・・・・・・
小学校6年の時の修学旅行には、両親ソロって 参加は、その当時では、珍しいものでした。
宿命 って、 信じますか?
私の宿命は、結婚出来ない 事 でした。
何故って、母親との関係構築 が 出来ない 宿命 上 だから、って、説明されました。
しかし、母のお蔭で、私は、母が 大好きでしたし、信奉者でも ありましたから、お見合い話も頂き、夫の3番目の 妻 でしたが、結婚出来ました。
母は 9歳で 母親と 死別しました。
その折、琴と三味線のお師匠さんが、幼女にと、切望されましたが、叔母さんの阻止により、身の安全を保たれました。
その時代、まだ、赤線?が 在って、女の人が売られていたのでした。
昭和33年 赤線防止法が通り、日本中から、赤線はなくなりましたが。
母は なんとか 子守奉公で 大きくなれたのでした。
他人のメシを 食うたか食わなかったか? が、大きく人間性を 変える事もありますから。
染の師匠の家に 下宿した折、母は 心配してくれました。
弟子として、寝食を共にしたほうが、格が 上 なんです。しかし、身体が丈夫ではナイ私は、自炊させて下さいと、 一段下の 勤務者(会社の従業員) に なりました。
先輩弟子の方に 真実を聴くと、師匠は仕事が済むまで 食事を摂らない方で、夜中の2時まで 夕食は食べられない時が よく 在ったそうです。
染の道を極める ためには、健康を保ち、神経をよそに向けたくなかったのです。
師匠のご両親は、とても やさしい方々でしたのに・・・・・・・
仕事場での、お茶の稽古では、お家元に茶道の入門で、ご挨拶に行く時、一つ紋の和服に、手持ちの 帯 が なかった時、師匠が、まだ、見につけていなかった 帯 を 貸してくださいました。
帯は 着物の倍の値段の 格 を使う が キマリとなっていましたから。
記念写真には、3代揃われた 表千家の お師匠方と その時の入門者がお茶の先生とともに 若い姿 が 額縁の中に収まっております。
母が経験出来なかった 華やかな娘時代を過ごせたのも、反動だったのかもしれません。
母は 決して 私の意志に反対したことはアリマセンでした。
黙って、見守ってくれました。
晩年の母には、寂しい想いをさせたと反省です、夫には 陶芸家として、電話がよくかかりました。
戦争体験で(於いてビルマ戦線)片耳が聞こえなくなっていたので、どうしても、電話番が必要だったのです。
前妻の一周忌を過ぎて、入籍記念の食事会では、両家がソロって嵐山の料亭で集いました。
白いブラウス姿の花嫁でしたが、母は、喜んでおりました。
どうして、結婚を強要しなかったのか? わかりませんが、39歳まで見合いは、したことがありませんでした。
母は 女の子の孫を切望していたようですが、口には出さず仕舞い でした。
奈良の春日大社のすぐ傍にある母の出生地は、 奈良県庁近くの信じられない場所です。
戸籍謄本の住所を見て、実際に行って見てきました。
なるほど~ 祖母が自慢タラタラ混じりだったのか、言って聞かせたんだな~と 納得しております。
ちなみに、私は戦禍を恐れて、福岡県の田舎(父方)で 出生致しました。ほんに田舎ものなんです・・・・・・