怒って優しい人ー母のお陰コメディアン萩本欽一 | seawinterのブログ

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絵は語りたいメッセージである。自由に想像の世界に遊べば良い。
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先日の深夜便で 午前4時、明日への言葉 萩本欽一さんの声が聞こえて、うとうとしながら聞いていた。

彼は、平成27年大学へ 入学している。今年は卒論で多忙とか・・・・・・・

 

別の番組で聞いていたが、直に聞くのは、初めてだ。

 

ハハ御様は100才と358日で亡くなられたそうだ。101歳の誕生日の7日前との事。

 

私の母は97才で亡くなり、もう居ない。しかし、怒られたのは、祖母だ。

 

母も祖母も、私が産まれる前、昭和18年と19年で3人の子供を亡くしている。

 

盲腸の手遅れ(10ヶ月)女児 と 疫痢(えきり)(4才女児と6才男児)だった。

 

一日に二人、朝と夕べに・・・・・・・

 

知る由もない 幼い私に 祖母は 厳しく しつけをした。相当なオテンバだったから。

4歳の時に妹が生まれたから、やっと、外の世界へ デビュー!!

 

近所の男の子達と 群れて 遊び回った。(村には、あいにく 女の子は私一人だけ)

 

その一人が同級生で、小学1~2年は二人で学校から帰るように、指示された。

 

祖母は、今の私と同年齢でなのです。明治8年(1875年)生まれだ。父親は絵かきで寺子屋の先生をしていた。母親は地主の娘だった。次子のお産で明き盲となっていた。

 

祖父は元福岡藩士だった。その頃では、めずらしく 女学校 卒 であった。

 

母は9歳でその母を亡くし、学校へは行けず、子守をして育った。

19歳で輿入れした母を再教育したのは、祖母だった。

 

だから、祖母と母は 仲良しに見えていたので、血のつながりが無いと兄達に聞かされて、泣いたのだ。

 

祖母は、ちじれ毛で 顔は 醜女(しこめ)だった。しかし、女は何で 幸か不幸か は 解らない。

男どもに蹂躙されること無く、息子(父)と沢山の孫たちに囲まれて、幸せだったからだ。

 

あの頃は、まだ、女が身を売らされて居た時代だったから・・・・・・

 

奇しくも、父と同じ会社を創業した社長は、家業の遊郭の家督を継いで、廃業し、その資金で起業した。

 

家業が嫌で家を飛び出し、大阪で父と友だちになり、父とイロイロと仕事を創ろうとしていた矢先だったから。

 

高校でその息子と同期生(没)だったことは、奇跡か?又、その未亡人から、絵画個展の案内状をもらった時は驚いた。同期生の息子は、聞いて居たのだろう、私がすべてを捨てて、絵の道に入ったとの覚悟を。

 

大阪のもっと競争の激しい高校卒の彼女は、油絵をずっと前から描いていたようでした。

 

今は、絵を描くことから遠ざかっていますが、祖母は、どう見ているでしょうか?

 

人間より絵を選んだ 私。 しかし、義息子を 若くして、みおくり、すべてを失ったが、もう、トックの昔にすべてを捨てて居たのだから、現実になっただけだ・・・・・・

 

人と人の見えない縁(えにし)の関係は、オドロキを持って、広がっている。

 

祖母の教えに今尚 したがっている 私である。

 

祖母の迫力ある顔は、怒った時には、もっとヒドくなるのを知っているのは、私だけかもしれない。 女は愛嬌などと言われるが、九州育ちの私には、笑いたくなる真実だ。

 

萩本欽一さんは、特別の笑いの元を 私に教えて下さった、ラジオを通じて。(大笑い)

 

            おしまい。