箱入り息子のパリ -4ページ目

箱入り息子のパリ

ありがとう人生!

バイトのこと パート2(アルバイトとパートがかかってる超面白いギャグ)


 連続不採用の長いトンネルからようやく抜けると、そこは大学一年の秋だった。今でも覚えているのは、最初に携帯が採用の電話を着信した時、僕はガールフレンドと観覧車に乗っていたということだ。たしか横浜にあるとても大きい観覧車だった。周囲に広がる夜景をよそに、せっせと、まるで小鳥が餌を啄ばむように慌ただしく唇を合わせる僕らにとって、その微細な振動は特に気にならなかった。これ以上ない完成された空間において、余計なノイズは一切の意味らしき意味を持たなかった。しかし、どうやらこの観覧車という小さな箱庭の中にさえも、禁断の果実に手を伸ばすようそそのかす蛇が存在するらしい。急に彼女は、漏れる吐息をシャットダウンして、「着信、あったんじゃない?」と口にした。僕としては正直そんなことはどうでも良かったけれど、たがいの角度の関係でそろそろ一つ後ろの乗客に、こちらが丸見えになることに気づいたので素直に従った。たしか後ろ、22番、の乗客は家族連れだった。
 その着信履歴をみると、一昨日あたりに面接にいった洋食レストランだった。そこは地元で数十年続いており、老舗というには年季も知名度も物足りなかったが、それなりに繁盛していたし、僕もたまに利用していた。加えて、中学受験時の知り合いがアルバイトとして勤務していたことが、少なからず僕の採用に有利に働いたらしかった。立地的にも、業種的にもそれほど苦労するようには思えなかったので、僕はそこで働くことを決めた。
 アルバイトのシステム上、男性はホールを経験した後厨房に入ることになっていた。いかんせん初めての“ちゃんとした”労働経験は、僕にとって新鮮でもあったし、馴れないうちは意外に肉体的な疲労がたまった。基本的に、新人に対しては他の人は優しかったし、僕自身、その労働の対価として得る自分だけのお金に、興奮を覚えなかったといえば嘘になるだろう。
 初めの数週間はこうした満足感が脳内麻薬のように作用して、僕をなんとも言えない気分にさせていた。しかし歴史上の勢力が、三代目で繁栄の頂点に達した後に没落して行くように、僕にとっての足利義満や徳川家光の時代はすぐに終わりを迎えた。
 言い訳を幾つかさせてもらうと、僕にアルバイトの経験がなかったこと、マニュアルというものがあってないような職場であったこと、職人気質の人が厨房を仕切っておりそこにあまり言葉が介在しないこと、あとは僕の立派な学歴が少々邪魔をしたこと、が原因で、次第に僕は働くことに苦痛をおぼえ始めた。その感情が技術面での熟練に大きく影響を与え、そのことがまた僕の苦痛に重石をくくりつけた。まるで荷を積みすぎたロバの蹄が柔らかい砂地に吸い込まれるように、僕は沈んでいった。感情のデフレスパイラルは、地の底へと無限に螺旋を描いているように当時の僕には感じられたし、実際それはキリキリと、コルクスクリューのように僕の心に深く刺さっていった。
 結果的にそこからは、ブルゴーニュ地方、グランクリュのピノ・ノワール特有の芳醇な香りを漂わせるロマネ・コンティというよりは、子供たちが待ちきれずに摘んでしまった、熟していない果実にありがちな青くささしか放つことはなかった。やがて、僕は熟成期間を置くことなく、適当な理由をつけてそのレストランから出荷されることを望み、すぐにその通りになった。あとには、そこでの食事が多少困難になったという認識と、知り合いへの罪悪感が残った。
 今にして振り返れば、薬指にできたささくれのように些細なことに感じるが、その時の僕は真剣だった。僕は自分自身に、美術館に整然と並べられた大理石の彫像のように、完璧な体勢で半永久的に静止することを望んでいた。