仙台藩でも一揆はあったの?農民の怒りが大爆発!歴史を揺るがした大一揆とは? | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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昨今の庶民の会話で二言目に口から出てくるのが、中東情勢に端を発した「ナフサ不足」および「物資供給不足」それに伴う「値上げのラッシュ」ではないでしょうか?

 

一方で政府は来年4月から飲食料品を対象に2年間限定で消費税を1%にする方向で検討が進められています。

 

物価上昇は私たち一般庶民の日々の生活に大きな影を落としていますが、今も昔も庶民の悩みとその矛先は変わっていないようで、米所であり雄藩と見られていた伊達家が治める仙台藩でも

江戸時代には農民の怒りが爆発した大きな一揆がありました。

 

今回は仙台藩の歴史を揺るがした大一揆について紐解いていくことにいたしましょう。

 

仙台藩の初代藩祖は我らが伊達政宗様。実は江戸時代の前期〜中期、仙台藩の一揆は驚くほど少なかったのです。理由は、これだけの大藩(表高62万石、実高100万石以上)で豊かだったということと、仙台藩独自の「買米(かいまい)制度」にあります。

 

買米制度とは、藩が農民から余ったお米を買い上げ、江戸で売って利益を還元していたため、他藩に比べて農民の生活が比較的安定していた時期が長かったからなのです。

 

しかし、藩の財政が窮乏しだした江戸時代後半から、雲行きが怪しくなるのです。

 

「寛政9年(1797年):「仙北十郡一揆(せんぼくじゅうぐんいっき)」
 

この一揆は、仙台藩の歴史上、空前絶後の最大規模となった一揆です。
藩の財政難から、農民への不当な課税や、買米代金の支払いの滞り、役人の不正が重なったことが原因でした。

 

なんと、 仙北(現在の宮城県北部から岩手県南部)の10の郡から、なんと約4万人もの農民が仙台城下の手前(現在の富谷市や七ヶ宿方面など、諸説あり)に迫るという非常事態!

藩側はさすがに武力で鎮圧しようとすれば領内が壊滅すると判断しました。

結果、 あまりの規模に藩側も武力鎮圧を諦め、家老を派遣して農民たちの嘆願をほぼ受け入れました。これにより「寛政の転法(てんぽう)」と呼ばれる藩政改革が行われ、不正を働いた役人や村の有力者が処分され、税負担が軽減されました。農民側の勝利に終わった、歴史的な一揆だったのです。

 

通常、江戸時代の一揆は「要求が通っても、首謀者は死罪」になることがほとんどだったのですが、この仙北十郡一揆では、あまりに農民側の組織力と大義名分が完璧だったため、首謀者たちの多くが軽い処分(追放など)で済み、命を救われたという点で、日本の歴史上極めて珍しい「大勝利」の記録となっています。

 

こんなとき、「一体お殿様(仙台藩主)はなにをやってるんだよ!」と言いたくなりますよね。

 

仙北十郡一揆が起きた寛政9年(1797年)当時の仙台藩主は、第9代藩主の伊達 周宗(だて ちかむね)だったのですが、周宗公はこの時わずか1歳(数え年で2歳)の乳幼児でした。

実はこの「藩主が赤ちゃんだった」という事実が、一揆の発生と結末に決定的な影響を与えています。一揆の前年である寛政8年(1796年)、第8代藩主の伊達斉村が23歳の若さで急死してしまい、生まれたばかりの周宗公が急遽、跡を継ぐことになりました。

 

藩主が赤ん坊で政治ができないため、藩のトップ(後見役や奉行たち)による権力争いが激化します。この混乱に乗じて、前述したような役人や特権商人たちの「ピンハネや不正」がやりたい放題になり、農民たちの怒りが爆発したのです。

4万人の農民が城下に迫った際、藩主が幼少であった仙台藩は、幕府に知られて「お家断絶(お家騒動による改易)」になることを何よりも恐れていたため、武力で大騒ぎを起こすわけにいかなかったため、藩側は農民の要求を丸呑みにして穏便に解決する道を選びました。

農民たちもこの藩の弱み(主君が幼少で内部がガタガタであること)を完全に計算に入れた上で、一揆を起こしたと言われています。

 

当時の農民にとっては、生きるか死ぬかの死活問題であり、一揆は命を賭けたまさに死闘!

それが藩の弱体化を突いたこともあり、穏便解決を迎えられたのは何よりでした。

 

ある意味、日本(仙台藩)にもフランス革命みたいな民衆運動があったのですね。(^^)

当時集まった約4万人の農民にあっぱれ!です。

 

昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。