仙台城ガイドボランティア会のブログをご覧頂きまして、ありがとうございます。m(_ _)m
大河ドラマや時代劇などで武士役の役者のヘアスタイルといえば、決まって「ちょんまげ」ですよね。
我らが伊達政宗様も片倉小十郎も織田信長も豊臣兄弟も徳川家康もたぶん、当時の武家の男子は当たり前のようにこのヘアスタイル(?)だったと思われます。
でも、この「ちょんまげ」の疑問って意外と尽きないと思いませんか?
そもそも、なぜ「ちょんまげ」というのか?いつから、ちょんまげを結うようになったのか?
今回はそんな「ちょんまげ」の疑問にフォーカスしてみたいと思います。
疑問その1「武士はいつからちょんまげを結うようになったのか?」
記録上、月代(さかやき=頭頂部をなくすこと)の最も古い記述は、平安時代末期の1176年、貴族の九条兼実の日記『玉葉(ぎょくよう)』に登場します。
そこには、平氏の一族である平時忠(たいらのときただ)が「月代」をしていたという記録が残っています。
ただし、この時代の始まりには2つの説があります。
すれハゲ説: 当時の成人男性は常に冠や烏帽子(えぼし)を被っていたため、前髪が邪魔にならないように抜いたり、擦れてハゲ上がったりした部分を「月代」(さかやき)と呼ぶようになった。
武士の先駆け説: 平氏は武士の棟梁の家系でもあったため、この頃からすでに戦いを見据えて頭をすっきりさせていた。
いずれにせよ、この段階では日本中が真似するような国民的髪型ではなく、ごく一部の風習でした。
疑問その2「なぜ、武士はちょんまげ(月代)を結うようになったのか?」
武士の代名詞ともいえる「ちょんまげ(月代:さかやき)」ですが、あの独特なヘアスタイルは単なるファッションではなく、戦う男たちの切実な問題から生まれた「究極のクールビズ」だったのです。
なぜあの形になったのか?理由は大きく分けて3つあります。
1. 兜(かぶと)の中の「熱中症」対策
一番の理由は、戦場での頭部のムレと熱対策です。
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武士は重い兜を被って戦うようになりました。しかし、日本の夏は高温多湿です。髪をそのままにして重い兜を被り、激しく動くと、兜の中はとてつもない熱と湿気がこもってしまいます。
そうすると、頭がのぼせて意識が朦朧(もうろう)とする、汗が目に入って前が見えなくなる。これでは、戦場では命取りになるため、「じゃあ、一番熱がこもる頭頂部の髪を剃ってしまおう」と考え出されたのが月代(さかやき)の始まりです。これにより通気性が劇的に向上し、兜がズレにくくなるというメリットもありました。
2. 実戦モードへの「切り替え」の証
普段は普通の髪型(総髪など)で過ごし、いざ出陣という時に頭頂部を剃り上げて気合を入れたのです。つまり、当時は「月代=これから命がけの戦場に行く」という戦闘モードへのスイッチだったのです。しかし、戦乱が日常化した戦国時代になると、いちいち生やしている暇がなくなったため、武士たちは日常的に頭頂部を剃るようになりました。
3. 江戸時代の「身分証明」とトレンドへ
戦国時代が終わり、平和な江戸時代になると、もはや兜を被る機会はほとんどなくなりました。しかし、ちょんまげ文化は無くなるどころか、さらに定着します。
武士のアイデンティティ: 「いつでも戦場に赴く覚悟がある」という武士のプライドや身分を示す記号になった。
庶民への流行: 支配階級である武士のスタイルが「格好いいもの」として江戸の町衆(庶民)の間でも大流行し、独自の発展を遂げた。
こうして、元々は「戦場での熱中症対策」だった実用的な髪型が、日本の伝統的なスタイルとして定着していきました。
ちなみに戦国時代、月代(さかやき)を作る時はカミソリで剃るのではなく、なんと「毛抜きで1本ずつ引き抜いて」いました。なぜかと言うと、戦場ではカミソリが手に入りにくく、また剃るだけだとすぐに生えてきてしまうためです。頭頂部を血だらけにしながら引き抜いていたと言われており、当時の武士の忍耐強さ(あるいは、そうまでしてムレを防ぎたかった切実さ)が窺えます。江戸時代になってようやく、カミソリで剃るのが一般的になりました。
疑問その3「なぜ、ちょんまげと呼ぶようになったのか?」
私たちが何気なく使っている「ちょんまげ」という言葉ですが、実はこれ、江戸時代の武士たちが誇りを持って結っていた頃の正式名称ではありません。
明治時代になってから生まれた、少し「自虐的でユーモラスなニックネーム」が定着したものなのです。
では、なぜそう呼ばれるようになったのか、理由は髷(まげ)の「形」にあります。
江戸時代も終わり頃(幕末)になると、老人や髪の薄い男性、あるいはあまりファッションにこだわらない実務的な武士たちの間で、「髷(まげ)を小さく、短く結う」のが流行りました。
頭頂部にのっている髪の束が小さく、ちょこんとしている様子が、日本語の踊り字(繰り返し符号)である「ゝ(ちょん)」の形にそっくりだったのです。
そこから、以下のような変化を遂げて言葉が生まれました。
「ゝ(ちょん)」みたいな形をした髷=「ちょん・まげ」
江戸時代、武士たちの間で主流だった格好いい髷は、もっと太くて長く、前方にきれいに突き出た「本多髷(ほんだまげ)」などと呼ばれるものでした。
これに対して「ちょんまげ」は、「髪が薄くて、貧相な髷しか結えない」
「おしゃれに無頓着で、とりあえず小さく結んであるだけ」
という、どちらかといえば「ダサい、おじいちゃんっぽい髷」をからかうニュアンスが含まれた言葉だったのです。
明治時代になり、文明開化でみんなが髪を切り始めると(散髪脱刀令)、それまで何百種類もあった髷のバリエーション(本多髷、銀杏髷など)を細かく区別する必要がなくなりました。
新時代の人々(あるいは西洋化を急ぐ人々)から見れば、どんなに立派な武士の髷も、おじいちゃんの小さな髷も、すべて「旧時代の古臭い髪型」です。
こうして、一番ユーモラスで呼びやすかった「ちょんまげ」という言葉が、江戸時代の男たちの髷全般を指す言葉として、大ざっぱに定着していったというわけです。
インフルエンサーの断髪式がちょんまげ文化に終止符を打った?
現在も写真に残っていますが、明治時代の「岩倉使節団」(1871年〜)の特命全権大使である岩倉具視の姿は、海外のメディアや人々を驚かせました。
当時、大久保利通や木戸孝允(桂小五郎)はすでに髪をバッサリ切り、洋服を着こなしていましたが、リーダーである岩倉は「日本の伝統と誇りを示す」として、頑なに和服(髷に羽織袴)のスタイルのままアメリカへ渡ったのです。
サンフランシスコやワシントンに到着した岩倉の「和服+ちょんまげ」姿は、現地のアメリカ人から見れば極めて異国情緒にあふれ、新聞などでも大きく報道されました。
「日本の誇り」としてちょんまげを維持していた岩倉ですが、アメリカを移動していく中で、その考えが180度変わる事件が起きます。
アメリカの文明の凄まじさを肌で感じ、さらに現地で暮らす日本人留学生(一説には、現地で合流した自身の息子・岩倉具定とも)から、「その姿(ちょんまげと和服)は、未開の野蛮国から来たと思われて軽蔑されます。対等な外交のためには、まず外見から西洋と並ぶべきです」と猛反対を受けたのです。
世界の現実を悟った彼は、驚くべき柔軟さで「よし、切ろう」と決断。1872年、使節団の移動中に立ち寄ったシカゴのホテルで、ついにそのちょんまげを切り落としました。
洋服に着替え、髪を短く整えた岩倉の写真(シルクハットを手に持った有名なポートレート)は、このシカゴでの断髪直後に撮影されたものです。
当時、明治政府は「髪型を自由にしていいよ」という散髪脱刀令(1871年)を出していましたが、一般の国民や保守的な人々は「先祖代々の髪型を変えるなんて…」と、なかなかちょんまげを辞めようとしませんでした。
しかし、「あの最高権力者で、伝統を重んじる公家の岩倉様ですら、海外でちょんまげを切ったらしい」というニュースが日本に伝わると、国民の意識は一気に変わります。
「岩倉様が切ったなら、自分たちも切ろう」と断髪が一気にブームとなり、日本の近代化(文明開化)がヘアスタイルから爆発的に進むことになりました。いわば岩倉具視は、意図せずして日本最強のインフルエンサーとなったというわけです。
あぁ、懐かしや500円札!重宝したねぇ。(^^)
昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。
