伊達政宗の残した借金を踏み倒した(!?)息子忠宗、その突っぱね方がすごい! | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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仙台観光をお考えの方は、旅支度の前に予習としてご一読を頂ければ、仙台城が10倍楽しめるかも。

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今も昔も庶民も国家もとかく「借金」との付き合いは切っても切れないもの。

 

俗に「国の借金」と言われるものは2025年9月末時点で約1333兆円(財務省発表)あるんだそうで、 国民一人当たりに換算すると約1080万円の借金に相当するそうです。(2025年7月時点の計算)。 

 

伊達政宗様が初代藩主を務めた仙台藩は、伊達六十二万石の雄藩で実高は百万石あったと言われていますが、幕末の仙台藩は、「天保の飢饉」後の復旧や、尊王攘夷運動への対応、戊辰戦争の戦費などで借金が膨らみ、廃藩置県の時には国内・国外合わせて120万両以上の莫大な負債を抱えていたようです。

 

幕末は苦しい借金経営だった仙台藩ですが、借金にまつわるこんなエピソードも。

 

初代藩主の伊達政宗様は寛永13年(1636年)2月24日、死のわずか3か月前に徳川幕府の老中・土井利勝や酒井忠勝に宛てて借用書を残しました。借りた額は 銀1,000貫目。これは現代の価値にするとおおよそ 10億円規模 と推定されています。

ではなぜ、そんな借金を申し込んだのかというと、この年の前年、江戸で火事があり、仙台藩の上屋敷と本屋敷が類焼したのですが、実は1621年にも類焼しており、十数年の間に2度も火事に遭っています。

そこで幕府は、老中の土井利勝を通じ、仙台藩に「幕府からお金を貸しましょうか?」という打診をしました。酒井忠勝も老中で、彼は金貨や銀貨の鋳造担当、いまなら財務大臣です。

10億円というと、庶民の財布では自己破産必至の金額ですが、当時全国第二位の外様大名の政宗様にしてみれば、必ずしも自分で調達できない額ではありませんでした。

それなのに、なぜ政宗様はお金を借りたのか?

それにはこんな思惑があったようです。

「幕府のせっかくの申し出を断ることは、幕府への忠誠を疑われるおそれがある。」

 

つまり、徳川幕府とのいい関係を維持するための今で言う「忖度」だったわけです。

 

そうは言っても現在の貨幣価値にして10億円です。返済するにしても容易な額ではありません。1636年(寛永13年) 政宗様が亡くなると、親が残した借金は二代藩主の忠宗公に引き継がれ、幕府から「借金を返せ」と催促が来ました。

 

ここで、忠宗公はアンビリーバブルな態度に出ます。

 

な、なんと「その借金は父の借金であり、自分には関係ない」と主張して幕府に対して返済を拒否。借金返済をとことん突っぱね続けます。

 

当時としては一歩間違えば、お取り潰しになるかもしれない大胆な忠宗発言。

 

まるで、どこかの国の某女性首相の「台湾有事」発言みたいなもんです。

 

果たして、その膨大な借金はその後どうなったのか?

 

これには諸説あり、事実上 完済されることなく有耶無耶(うやむや)にされたという説と、借金は四代藩主・伊達綱村(つなむら)公(1659-1719)の時代に完済され、「借金の証文」も無事、幕府から仙台藩へ戻されたという説があります。

 

仙台藩の幕末の借金は「明治維新」という名の「グレートリセット」で一部は明治新政府が引き継ぎ、一部は踏み倒しという形でエンディングを迎えましたが、我が日本国の膨らみ続ける借金が「グレートリセット」を迎える日は訪れるのでしょうか?

 

※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。