中国に渡って馬賊となった伊達政宗の子孫がいたって知っていましたか? | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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戦国時代には数多くの武将がおりましたが、その中でも武田信玄や上杉謙信、織田信長や真田幸村などと並んで高い人気を誇るのが、我らが伊達政宗様。

 

勇猛果敢にして、ひなの歌人として和歌や漢詩の才能にも秀で教養も高かった政宗様。

 

そんな政宗様の子孫の中に、なんと日本を飛び出して中国に渡り、馬賊(盗賊に対抗するための自衛組織のようなもの)になった人物がいたということをご存知でしたか?

 

今回は、政宗様の子孫「伊達順之助」について、紐解いていくことに致しましょう。

 

伊達順之助は1892年〈明治25年〉1月6日に、仙台藩十三代藩主・伊達慶邦の養子となった伊達宗敦の六男として生まれました。祖父は幕末の四賢侯の一人の宇和島藩主伊達宗城なので、仙台藩祖伊達政宗の直系子孫に当たります。ちなみにお父さんの宗敦はのちに仙台の知藩事を務め、華族となり、男爵となります。

 

大名華族の子に生まれた分けですから、いわばお金持ちのボンボンで何不自由のない生活が保証されていたはずなのですが、みなさん「六男」というキーワードになにかピンと来ませんか?

 

そう「六男」といえば、徳川家康の六男の松平忠輝。政宗様の御息女である五郎八姫様がお輿入れし、家康様と伊達家の同盟関係を盤石なものにしていけるはずだったのに、忠輝のやんちゃぶりが度を越して家康からは遠ざけられ、最終的には改易になったあの問題児。

 

伊達順之助さんもそんな忠輝にも負けないぐらいのやんちゃぶりをお持ちでした。

 

幼少期からとにかく素行が悪く、1904年(明治37年)に麻布小学校を卒業し、その後麻布中学、慶應義塾中等部、攻玉社中学、学習院、幼年学校、立教中学などいくつもの学校を転々としたそうですが、確かなところは定かではありません。

この間、慶應義塾中等部では出刃包丁を持って登校し、立教中学在学中の1909年5月13日には、東京明石町の路上で縄張り争いから不良学生を射殺する事件を起こし、1909年10月15日の東京地方裁判所判決では懲役12年、1910年6月の控訴審判決では懲役6年を宣告されたが、伊達家の弁護士の依頼により探偵岩井三郎が被害者の素行調査を行い、上告審を有利に進め正当防衛であったことを立証、大審院の差し戻しによる宮城控訴院判決では執行猶予を得て釈放された。

 

ここまでを聞いただけでも、「出刃包丁持参登校」に「縄張り争い」に「射殺」。挙句の果てに弁護士を使っての裏工作で減刑って、かなりヤバイ人というか危ない人物である。

 

その後彼は関東大震災のドサクサに紛れて、無政府主義者たちがクデーターを起こそうとしたという容疑で拘束した3名を勝手に殺害した甘粕事件の首謀者甘粕正彦に接近して東京から中国の奉天に渡り、1916年に張作霖爆殺計画に参画し、1919年に山縣有朋暗殺計画(共に失敗)を画策する等、過激な行動がエスカレートしていく。

 

さらに、1931年には大陸浪人として中国に帰化し張宗援と称し、1937年には満州国軍四千名を率い山東に出陣する。終戦後、順之助は中国青島にて日本人戦犯として連行、戦犯とされ青島拘留所、上海監獄臨時戦犯拘留所、江湾鎮戦犯収容所に収監され死刑宣告を受けた。のちに上海監獄に送られ、1948年9月9日銃殺刑に処せられて、生涯の幕を閉じたそうです。(享年56歳)

 

政宗様の生涯も波乱万丈でしたが、順之助さんの生き様があまりにも過激で壮絶過ぎて、コメントのしようがない。ただ、中国に帰化したぐらいだから相当の覚悟を持って、中国の革命戦士として命を賭けて戦っていたことは伺えます。

 

以上、意外な伊達政宗の子孫、伊達順之助についての紹介でした。

 

※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。