大名家が赤字借金体質だったのには、実は深~いワケがある。 | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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以前のブログで仙台藩の懐(ふところ)事情について書きましたが、

 

歴史好きの方ならご存知かとは思いますが、この「赤字→借金依存」体質というのはなにも、仙台藩に限ったことではないのです。

 

徳川幕藩体制が確立されて、戦のない天下泰平な世の中になり、余計な軍役やらお金が掛かるようなことが少なくなっていくのかと思いきや、大名は参勤交代で江戸と領国を2年毎に行ったり来たりしなければならないし、江戸屋敷の維持費も掛かる。

 

それに、凶作やら飢饉で肝心のお米が不作となれば、藩に入ってくる年貢米も少なくなる。

こればっかりはお天道さま次第なので、そもそも見積もったとしても見通しが立たない。

 

収入は不安定、経費はかさんで収支はマイナス。現代の企業運営において、効果のある真っ先に打てる手はこれしかない!そう、「リストラ」である。

そもそも戦なんてほぼほぼない分けだから、戦闘要員である家臣を仕事のできる者とそうでない者とを見定めて、大変残酷な決断ではあるけれども「浪人」か「帰農」の道を選択してもらう。

そうすれば、家臣に払う俸禄が減るのだから、藩の財政は維持できるはず。

 

でもね、大名は抱えていた家臣団を簡単に減らすことができない、深い事情があったのです。

 

大名の武士の「雇用」は、自由な判断で進められるものではなく、徳川幕府が諸大名に発布した軍役令に基づいているのです。これは、1616年(元和2)、1633年(寛永10)、1649年(慶安2)に出されており、石高制に基づく知行高を基準とした軍役負担を明文化していました。

 

大名の軍役は、知行高1万石の場合、人数235人、馬上10騎、鉄炮20挺、弓10張、槍30本、旗3本が基準となります。これは、戦時だけではなく、平時の幕府に対する奉公の基準になっていて、(御恩と奉公、いざ鎌倉ってやつです)幕府の規定に従い、諸大名も家臣たちに同様の軍役を課していた。ちなみに、伊勢国津藩(藤堂家、所領27万石)では、知行高1,000石に対し、合計30人の配置を定めている。

 

これを単純に仙台藩の伊達62万石(表高)に当てはめると、このような計算になります。

 

235人×62=14,570人

10騎×62=620騎

20挺×62=1,240挺

10張×62=620張

30本×62=1,860本

3本×62=186本

 

松江藩には几帳面な会計係がいたんでしょうかね。10年ごとの収支決算書が残されていて、その平均値を使った費用ごとに仕分けをして割合を算出すると、家臣給与が40~50%、江戸屋敷維持費が20%、松江屋敷維持費が13%、参勤交代費が6%、上方入用が3%、借金返済が4%、奥向(お殿様の生活費)が10%、民政(民のための経費)5%となるそうです。

 

つまり、支出の半分は家臣を抱えるための固定費だった。しかも、その人件費はお上の命令によるものなので、簡単には減らすことが出来ない。

 

そもそも米に変わる基幹産業がない分けですから、時代が進むに連れて行き詰まることは必定だったのかもしれませんね。明治維新後は殖産興業に着手する分けですし。

 

藩の「勘定方」や「勝手方」は資金繰りに頭を悩ませたでしょうが、お金の無心で頼りにされる商人たちも「ない袖は振れない」とは言えず、さぞ困ったことでしょう。

 

※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。