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生き馬の目を抜く戦国時代。伊達政宗様も例を挙げれば「人取橋の戦い」、「摺上原の戦い」など幾多の大きな戦を駆け抜けてこられました。
それ以外にも、一揆を鎮圧したり、他国の侵略を阻止したりと小さな小競り合いを含めると、数え切れない出陣があったことでしょう。
では、この”戦”における”兵”とはいったいどのようにして集められたのでしょうか?
今日はその疑問を掘り下げてみたいと思います。
まず、織田信長によって兵農分離が行われるまで、兵の大半は戦いのないときは農業を営む半士半農の「二刀流」でした。今では大谷翔平選手の活躍により、頻繁に使われるようになった「二刀流」ですが、武士と農民の二刀流では勝手が違います。何しろ普段は田畑を耕して、収穫時期に実りを得ることを生業としていながら、もう一方では一歩間違えば命を落とす危険性もあった分けですから、「一死」や「二死」どころではありません。
でも、命令には絶対服従、逆らうわけには参りません。
出陣が決まると、大名は農作業に精を出す領主や地侍などに、その所領に比例した兵力の提出を通達する「軍勢催促」と呼ぶものを発します。
このときの「軍勢催促状」持った使者が派遣され、それを受け取った武士たちが必要に応じた兵力を連れて参集します。城下などに暮らす武士たちには、あらかじめ定めてある音調に従い太鼓や鐘を鳴らしたり、狼煙を上げるなどして、軍勢催促状を受け取る前の事前通達を行いました。これを、「陣触れ」といいます。
遠方に暮らす武士に対しては早馬を飛ばし、口頭や催促状などで伝えました。
遠方の武士たちは参集するのにどうしても時間が掛かるし、移動機関中の食料なども必要になるため、自分の住まいが出陣するルートに近い場合は途中から合流することも認められていました。
前述したとおり、兵は”半農”であったため、戦を行うのは農閑期に限られ、種まき時期や収穫時期の農繁期に「軍事催促」を出すことは出来るだけ避けねばなりませんでした。
「陣触れ」を受けた武士たちは、必要な戦支度を整え、供を連れて、君主である大名の城や指定の場所に馳せ参じたのですが、そこには「軍奉行」という監視役がいて、次々と到着する武士たちを記録する「到着目録」が作られました。この「到着目録」には、その武士が陣触れを受けてから、距離に対してどのくらいの速さで駆けつけたかということも記されていたんだそうで、それが忠誠心の評価基準になったんだとか。(昔から遅刻にはうるさかったんでしょうかね)
一般的には「百貫一騎」と言われ、百貫の領地を持つ武士は馬に乗って出陣し、それに応じた数の供を連れて行く必要がありました。だいたい25貫の土地を与えられた半士半農の地侍で馬一騎に鎧兜で騎乗し、2間の長さの槍持ち1人、指持ち1人を連れて来なさいというものだったのですが、ここには水面下の徴兵もありました。俗に”小荷駄”と呼ばれる食料や補充武器などを運ぶ者や”下人”と呼ばれる戦いに加わらず、主人のために様々な品を背負って運ぶ仕事を主とする従者「沓持ち(くつもち)」や「幕袋負い(まくたいおい)などが農民から徴用されました。
戦って、表立ってチャンチャンバラバラの戦闘をする人だけがクローズアップされますが、実はその影で懸命に主人のために働いていた人がいたということを覚えておきましょう。
いざ「陣触れ」が掛かるということは、庶民にとっては一時的に働き手が持っていかれるは、下手をすると大事な身内が命を落としてしまうかもしれないという、一大事でもあったのです。
突然の「陣触れ」を知らせる太鼓や鐘の音が聞こえてきたら、庶民はどういう心持ちだったのでしょうかね。
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。