稙宗と晴宗が仕掛けたホトトギスの托卵作戦は伊達家に繁栄をもたらした!? | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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伊達家の繁栄は誰がもたらしたのか?

 

歴史をたどれば、仙台に城を築き、初代仙台藩祖となったみなさんがよく知る伊達家17代の政宗様が文句なく筆頭と言えるのかもしれません。

 

でも、歴史というのは過去の積み重ねがあって成り立つもの。見方によっては、伊達家の始祖である朝宗公が福島県の伊達郡を拝領して移り住んだのも功績ならば、17代政宗公の命名の元となった9代伊達大膳大夫政宗公も「中興の祖」と伝えられて来た分けですから、功績は計り知れません。

 

しかしここに、奥州を巻き込んだ6年にも及ぶ”親子喧嘩”を引き起こした困ったちゃんでありながら、実は伊達家に多大な繁栄をもたらしたのかもしれない14代稙宗公と15代晴宗公について今回は、紐解いてみることにいたしましょう。

 

突然ですが、17代政宗様のひいお爺ちゃんである稙宗公のお子さんの数は何人かご存知ですか?

 

正解は女性が7人、男性が14人の合計21人です。そのうち男子1人、女子2人が夭逝(成人前に亡くなることね)しています。 

名前が”タネ”だから=子だくさんと結び付けた方もいるかもしれませんが、それは間違い。

稙宗の”稙”は室町幕府の将軍足利義稙公から一字を頂いた(偏諱と言います)からなのです。

ちなみに、この21人は一人の奥さんが産んだ数ではありません。正室の他に生んだ母親は7人いるということが分かっています。

続いて、稙宗公の上から数えて5番目の長男である跡取りの15代”晴宗”公。

では、同じくお子さんの数は何人だったでしょう?

 正解は6男5女=11人でした。(直宗早死)

さきほどの稙宗公の21人と比べると、数は半分なのですが、アンビリバボーなことが、、、。

な、なんと6男5女=11人は晴宗公と正室久保姫様の共同作業で、生母は久保姫様オンリー。

つまり一人で11人を産んだということなのです。

すごいとしか言いようがないのですが、二人の仲睦まじさは、以前こちらのブログも書いたとおり、「奥州ラブストーリーは突然に」ですから。

 

 

それで、この子だくさんの”father and son”のどのへんが繁栄させた功績なのかと申しますと、

稙宗公と晴宗公のお子さんは女子は有力な武家に嫁いで、男子はそれなりの有力な武家を継いでいる。つまり、こうしたホトトギスがウグイスの卵を追い出して、自分の卵を生んで育てさせる托卵のように、結果的には他家を乗っ取り、自分の支配下に治めていくというハプスブルク家がやったような作戦でもって、南奥州における基盤固めが完遂し、政宗様の大偉業につながったという見方も出来るということなのです。

 

もっともその後、お二人が起こした親子喧嘩=天文の乱によって、勢力図がゲシュタルト崩壊を起こしてしまうのですけどね。
 
では、最後に政宗様のお父さんである輝宗公のお子さんの数は何人でしょうか?

長男の政宗様を筆頭に全部で男子が二人で、女子が二人(夭逝)

成人したのは、たった二人の兄弟のみだった分けですが、次男の小次郎さんは歴史の表舞台からは姿を消してしまいまいました。見方によっては、政宗様が一本立ちして、伊達家の屋台骨を支え続けて来たんだからやっぱり、この人は持っていたんですかね。
 
種(稙)を撒き、春(晴)になり、太陽がよく照って(輝)、作物が実り、収穫を祝い神様に感謝をする祭り事(政)につながったということなのかもしれません。m(_ _)m


※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。