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人というのはアクシデントに遭遇すると、焦り、取り乱し、平常心を保てなくなるものです。
ましてや、自分の目の前で命に危険が及ぶような刃傷沙汰が起きたりしたら、とてもじゃないけど、冷静ではいられないはず。
でも、そんな場面に遭遇したにも関わらず、機転を利かせて窮地を救った英雄が仙台藩にいた事をどのくらいの方がご存知なのでしょうか?
今日はそんな話を紐解いてみましょう。
時は延享四年(1747)八月十五日、江戸城大広間脇の厠付近において、あり得ない事件が発生しました。
熊本藩藩主細川宗孝が、旗本の板倉勝該(かつかね)に突然背後から脇差しで斬りつけられ、殺害されるという刃傷沙汰が勃発しました。実はこの事件、な、なんと人違いによるものだったのです。(諸説あり)
伝え聞くところによると、板倉本家当主の板倉勝清が分家の勝該の代わりに自分の庶子に跡目を継がせようと画策。それを耳にした勝該は恨みに思い、勝清を襲撃しようとしたのですが、板倉家の「九曜巴」紋と細川家の「九曜星」紋が極めて似ていたため、背中の家紋を見間違えて細川宗孝に斬りつけてしまったのだそうです。
左が細川家の「九曜星」紋、右が板倉家の「九曜巴」紋
まあ、たしかに似ているといえば似ている!?
世に言う「細川宗孝殺害事件」
この凄惨な事件のまさにその時、たまたま居合わせたのが仙台藩の6代目藩主伊達宗村様なのであります。宗村様は、完璧に即死だった細川宗孝を前にして、機転を利かせて「宗孝殿には未だ息がある。早く屋敷へ運んで手当せよ。」と細川家の家臣に命じたそうです。
家臣たちは宗村様の仰せの通りに、すでに絶命している宗孝公を藩邸に運び、家中では急いで後継ぎを弟の細川重賢として幕府へ届け、藩主である宗孝は介抱の甲斐なく死去したことにして、無事ことなきを得たのです。
当時、藩主の世代交代というのは大変デリケートな事情がありました。
まず第一に跡継ぎになるためには徳川将軍に「お目見え」と言って、謁見を済ませていないと「世継ぎ」と認めてもらえなかった。
そして、世継ぎ候補の男子が仮にたくさんいたとしても、昔は子供が成人になるまで無事に育つ保証がなかった。(流行病だったり、病弱だったり)
昔は17歳が成人の基準だったので、17歳未満で藩主が亡くなった場合は無条件で「お取り潰し」の対象でした。以前のこちらのブログでも紹介しましたが、お家のバトンを繋ぐというのはそう簡単なものではなかったのです。↓
宗村様はこの惨劇の最中、脳をフル回転して細川家のバトンをつなぐ手助けをしてあげたという分けなのです。
実は伊達家と細川家には浅からぬ因縁が、、、。
我らが伊達政宗様と細川忠興様が朝鮮出兵の際、中国を代表する書家が書いた「王義の書」という書物を取り合いになりました。どちらも譲らず、結果どうしたのかというと、なんと半分に分けて持ち帰ったのです。(この二人、書物のありがたみを分かってんのかしら?)
そう、お互いのプライドがバチバチぶつかり合い、結果痛み分けした、あの「王義の書」。
宗村様が細川家存亡の危機を救ったということで、細川家が「王義の書」の残りの半分を伊達家に贈って来たんだそうです。(王義の書、原型が今ここに!って言うか、破んないでよね)
宮城県と熊本県の距離はおよそ1600キロメートル。
東日本大震災で被災した宮城県と熊本地震で被災した熊本県。
この二つの県には、実はこんな強い絆のエピソードがあったのです。!(^^)!
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。