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陸奥国仙台藩こと江戸時代の伊達家は、初代の伊達政宗から13代の伊達慶邦(よしくに)まで続き、明治維新を乗り越え一応、現在の18代目の伊達泰宗さんまで続いている。
ただ、泰宗さんは現在63歳なのですが、お子さんは娘さんが2人。果たして、19代目は養子?女系存続?断絶?興味は尽きませんが、ピンチをチャンスに変えるのが得意だった政宗様の子孫ですから、きっと素晴らしいミラクルをお考えになるんだと思います。
さて、現代の「伊達家存続」問題をさかのぼること、およそ200年前。
伊達家が江戸時代、本当に滅亡(お家断絶、おとり潰し)しそうになったピンチがあった。
世にいう「8代~10代への奇跡のバトンパス」事件である。(諸説あり)
寛政8(1796)年、この年伊達家を不幸の波が襲った。
3月に8代藩主伊達斉村の正室の誠子が長男周宗を出産するが、産後の肥立ちが悪く4月16日に死去。
追うように7代藩主父重村が死去。と思ったら、斉村自身も仙台に帰国の途中に病に罹り、7月にこの世を去ってしまう、享年23歳。
彼には、生まれたばかりの1歳の長子周宗(ちかむね)がいた。
当時の幕府の規則では、「諸侯は17歳に満たないと跡取りを立てることが出来ないうえ、御目見(おめみえ)と呼ばれる将軍との謁見を済ませておかないと、後継ぎには認めてもらえなかった。
ところが、斉村の死を2週間ほど隠して時間を稼ぎ、伊達家の重臣たちは裏工作の限りを尽くし、死に物狂いで頑張った。その結果、なんとか超法規的措置で1歳の周宗を跡継ぎとすることが認められた。
これで、ほっと一安心!(^○^) 胸をなで下ろす伊達家重臣たち。
しかし、そうウマくいかないのが世の中である。
せっかく、強引な丸め込みで跡継ぎにたてた、9代当主周宗が実は病弱。
なんと、文化6(1809)年に14歳の若さで亡くなってしまう。(>_<)
跡継ぎが途絶える=お家断絶
末期養子(まつごようし)という制度はあるけど、段取りにはいろいろと制約がある。
まさに伊達家存続の危機!(14歳の周宗には当然、子供がいないわけですから)
そこで、また伊達家の重臣オールスターズが老獪なインサイドワークを駆使する。
家老の中村景貞(日向)はまず、伊達家ネットワークを使い7代藩主重村(映画「殿、利息でござる!」で羽生君が演じた人ね)の末弟で幕府の若年寄だった堀田正敦と連携し、「周宗公は生きている!」キャンペーンを展開した。(このキャンペーンは実に3年間に及ぶのです)
周宗公は生きているんだから、あたりまえのように毎日食事の用意もされていたと伝えられている。
こうして3年後、8代藩主斉村の異母弟の徳三郎を10代斉宗として藩主に立てることに成功した。
中村日向はこの功労に対して斉宗からお給料を上げてもらった(1,000石の加増)。
どうやら徳川幕府もこの周宗が亡くなったことは、実は知っていたんだけど、大藩の仙台藩を安易に取り潰すことを躊躇(ちゅうちょ)したという説や、当時の幕府は幕府で放漫な政治体質で、ピリッと感が薄れてしまっていたところもあったようです。
実はこの手の話はほかの藩にもけっこうあったようで、それを調べてみるのも面白いかもしれません。
(末期養子で検索をしてみるといいかも)
お家が断絶となり、他の領地からの国替えで別の藩主が赴任したり、天領(幕府の直轄地)になったり、
はたまた藩と天領が混在したりしたところがある中で、伊達家はなんとか明治維新を迎え、領地もそれほど変わらずに宮城県へとバトンタッチした。
これも一重にこの時の頑張りがあったから、なのですかね。
あらためて、「伊達家重臣オールスターズ」にあっぱれ!です。!(^^)!
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