仙台城ガイドボランティア会のブログをご覧頂きまして、ありがとうございます。m(_ _)m
私たちが仙台城のボランティアガイドとして、お客様の前でご披露するお話はたくさんあります。
騎馬像の前ではこんな話とか、石垣の所ではこんな話とか、状況に応じて多少話は変わることもありますが、大体はその場所でする定番の話というのが決まっております。
しかし、昨今の歴史上の新事実の発見や目覚ましい研究成果の発表の勢いがハンパない。
昭和の教科書に載っていた肖像画が別の人物のものだったり、実在説が否定されたりと、、、。
ふと気が付けば、当たり前だと思っていた歴史認識がいつの間にか書き換わっていたり、下手をすると
全く真逆のことが正論になっていたりする。
こうした動きは、仙台城ガイドにおいても決して対岸の火事では無い。
なので、ガイドをする上に置いては、こうした新事実をしっかりとアップデートしておかないと、お客様から「それって、間違いなんじゃないですか?」と思わぬ突っ込みを受けることも想定される。
そう思っていましたら、今ここに仙台藩に関する重大な新事実がつまびらかにされました。
それが、こちら↓
「宮城産 かつて低評価」。
江戸時代、江戸における米市場の仙台藩領米の評価は低かったという記事なのですが、これはこれで意外と有名な話で、東北と言えば冷害に飢饉に自然災害とお米を取り巻く環境は決して恵まれていませんでしたから、やむを得ないところもありました。
ここで取り上げたいのは、そこではなくて、6行目の真ん中辺り、「江戸で消費される~」で始まる部分をお読み頂きたい。
「江戸で消費される米の3分の1,または3分の2が仙台藩産だったと言われるが、これは典拠となる資料の読み間違いから来た俗説で、実際に消費されている量や仙台藩領から運ばれている米を冷静に計算しても、シェアは1割程度と見るのが妥当である。」
えぇぇぇー、そうなんですか?(゚Д゚)
だって、今まで例えばこんな風に教わってきましたよ。
「仙台藩祖・伊達政宗が、北上川や阿武隈川などの河川から安全な水を引ける堰をつくり、積極的な新田開発を進めました。そのおかげで、仙台藩は62万石の実質石高を超え、江戸中期には江戸に流通された米の3分の2が「仙台米」だったといわれています。」
とか、
「仙台藩で獲れたお米は「本石米」と呼ばれ、石巻から江戸や大坂に輸送。当時、江戸で消費されていた米のうち実に3分の1は仙台藩のものであったという。」
仙台城を訪れた多くのお客様に、
「江戸のお米のシェアは仙台藩がナンバーワンだったんですよ」
「将軍もお侍も町民もみーんな、仙台米を食べて育ったんですよ」
なぁんて、「仙台藩産米のシェア№1説」を伝えてきたのに、それが、実は単なる資料の読み間違いだったなんて、、、。(-_-;)
これまで間違った史実をお伝えした皆様、大変申し訳ありませんでした。
仙台藩に成り代わりまして、この場をお借りして、謝らせて頂きます。m(_ _)m
でもね、せめてもの救いなのが、最後の行に「宮城の米が質・量ともに全国トップクラスになるのは、明治以降の生産者をはじめ関係者によるたゆまぬ努力のたまものである」と書いてあるではないですか!
「ササニシキ」に「ひとめぼれ」に「伊達正夢」他ETC。
今では、宮城ブランドのお米が美味しいという事実に偽りは無い。
みなさんも仙台にお越しの際は、美味しい宮城米を食べて帰ってくださいね。
宮城米、万歳!(^o^) もうね、歴史の粗探しはほどほどにしてほしいもんだ。(-_-;)
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。