仙台城ガイドボランティア会のブログをご覧頂きまして、ありがとうございます。m(_ _)m
「どうする家康」との勝手にコラボ企画、「どうする?政宗」。
今回の「どうする?」は慶長5年(1600年)の長谷堂合戦について掘り下げてみたいと思います。
世に言う「長谷堂合戦」、「長谷堂城の戦い」とも呼ばれるこの合戦。
簡単に説明をしますと、豊臣秀吉の死後、慶長5年(1600年)6月に会津上杉征伐のために徳川家康が満を持して出陣をしたのですが、7月24日下野小山において石田三成の挙兵の知らせを受けて、有名な「小山評定」が行われ、急遽軍勢を反転させ西に向かいます。
ここで、上杉攻めに招集を掛けられていた奥羽の諸軍は軍を自領に引き上げ、我らが伊達政宗様の軍は7月に攻略した白石城の返還を約して和睦を結びます。
奥州が火の海となることが回避されたとホッと胸をなでおろしたのもつかの間。
臨戦態勢だった上杉軍は振り上げた拳の矛先を山形の最上義光へと向けます。
大河ドラマ「天地人」で一躍有名になった直江兼続が、このときを機とみて最上攻めに全勢力を注ぎ込み、怒涛の進撃を見せます。その部隊となったのが、長谷堂城なのです。
最上軍の7,000に対して、直江兼続が指揮する上杉軍本体は2万5,000ですから、兵力差はざっと3倍。不利な状況にありながら、善戦する最上軍。
長谷堂城と山形城は距離にしておよそ8km。山形城防衛において最も重要な城であり、もし、長谷堂城が落ちれば、次は山形城に戦火が及ぶ。
絶体絶命のピンチに陥った最上義光は、使者として嫡男の最上義康を当時北目城にいた伊達政宗様のもとに向かわせ、援軍を嘆願します。
ここで伊達家の重臣、片倉小十郎景綱は上杉家と最上家を争わせて、疲弊させ、弱ったところを攻めるのが得策だと諌め、時間稼ぎをして援軍を拒むことを進言します。
”因縁の相手 最上義光からの援軍要請”
”母の実家に援軍を送るべきか?”
”でも、上杉とは和睦しているし?”
”片倉小十郎の「漁夫の利」案を採用するか?”
「どうする?政宗」
ここでも悩みに悩んだ政宗様。
お館様の決断はこうでした。
「一つは家康のため、一つは山形城にいる母上(義姫・保春院)のために最上を見捨てるわけにはいかない」
義理人情にアツい”熱男”こと我らが政宗様ですから、当然と言えば当然の決断でしょうかね。
かくして、16日付の書状にて政宗様は約3,000の兵を率いて叔父留守政景を救援に派遣することを決めるのです。
9月21日には、政宗様が派遣した留守政景隊3千の軍勢が白石から笹谷峠を越えて山形城の東方(小白川)に着陣し、9月24日には直江兼続本陣から約2km北東の須川河岸の沼木に布陣。続けて、最上義光の軍勢も9月25日山形城を出陣し、稲荷塚に布陣し、上杉軍と対峙します。
伯父と甥の親戚タッグ、ここに結成!
ここで、吉報(!?)が舞い込む。
9月29日に、関ヶ原において石田三成が指揮を執る西軍が、徳川家康が指揮を執る東軍に大敗を喫したという情報が、直江兼続のもとにもたらされます。敗報を知った兼続は、撤退を決断し、翌9月30日には最上勢も関ヶ原の結果を知ることとなり、攻守は逆転する。
10月1日に上杉軍が撤退を開始し、最上伊達連合軍がこれを追撃をします。
逃げる上杉軍、追う最上伊達連合軍。ここに史上稀に見る撤退戦が繰り広げられます。
この撤退&追撃戦の最中に最上義光の兜に銃弾が当たるなど(この銃弾を受けた兜は現存しています)激戦となり、両軍多くの死傷者を出しました。その後、直江兼続は最上軍の追撃をなんとか振り切り、10月4日に米沢城へ帰還したと伝えられています。
最上に援軍を送り、戦の最中に関ケ原の決着が伝えられたことで戦況は一変し、事なきを得ましたが、もし、選択を一つでも誤っていたら、果たしてどうなっていたんでしょう?
さて、あなたがもし政宗様だったら、その時どうする?
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。