秀吉から小田原参陣の催促が、どうする?政宗 | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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「どうする家康」との勝手にコラボ企画、「どうする?政宗」。

 

今回の「どうする?」は天正18年(1590年)の小田原参陣について掘り下げてみたいと思います。

 

 

着々と天下統一を進める秀吉政権。総仕上げとして最大の難敵である小田原北条氏攻めに取り掛かります。実は政宗様は父・輝宗の時代から北条氏と同盟関係にありました。

 

秀吉様からは再三に渡り恭順し、小田原に参陣するよう使者が送られ、返答を要求されます。

 

このまま素直に秀吉様に恭順の意を示し、小田原に参陣すべきか?

 

それとも、徹底抗戦の意思を貫き、秀吉政権との最終バトルという修羅の道を歩むのか?

 

”多勢に不勢の状況”

”秀吉に屈する道を選ぶのか?

”伊達家の威信を貫くのか?”

 

「どうする?政宗」

 

かくして悩みに悩んだ政宗様でしたが、大河ドラマでは西郷輝彦さんが演じた片倉小十郎が「秀吉はハエと同じで、払っても払っても何度でもやってきますよ」と助言して、小田原行きを決断したと描かれていましたね。

 

この間、政宗様の母義姫による実弟の伊達小次郎(政道)擁立および政宗毒殺未遂説が大河ドラマの頃には採用されておりましたが、現在その説は有力では無いとの見方が一般的です。

 

小田原参陣を決めた政宗様でしたが、仇敵佐竹氏らとニアミスを避けつつ、米沢から小国を経て日本海側に至り、上杉景勝の所領である越後国から信濃国~甲斐国を経由して、5月27日に甲府に到達し、6月5日に小田原へ到着します。

 

このとき、遅参の詰問に来た前田利家らに千利休の茶の指導を受けたいと申し出、秀吉らを感嘆させたと言われています。また、政宗様は反省の意を示すプレゼンとして髷を切り、死装束を思わせる格好で秀吉に謁見。はじめて政宗様に対面した秀吉様はその心意気を気に入り、自らの杖で政宗様の首を小突きながら「もう少し遅れていたらこの首は無かったぞ」と笑いながら語ったというシーンは大河ドラマでも再現されていました。
 

しかし、天正17年の摺上原(すりあげはら)の戦いで蘆名氏(あしなし)を滅ぼしたことで「惣無事令(そうぶじれい)」違反を問われた政宗様ですが、蘆名氏を滅ぼしたのは親の敵討ちであると弁明します。伊達家は一旦本領は安堵されたものの、後の宇都宮仕置や奥州仕置を経て、会津すなわち旧蘆名領は没収されてしまいます。(のちに我らが宮城県に国替えを命じられます)


結果的に伊達家は存続し、我らが伊達政宗様もこの後伊達六十二万石の礎を築いていく事になる分けですから、北条氏を始め多くの武家が断絶となっていった時代にバッドエンドに成らず「To Be Continued」になったのは、賢明な選択だったのではないでしょうか。

 

さて、あなたがもし政宗様だったら、その時どうする?

 

※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。