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2022年8月22日(月)宮城県民、いや東北地方に住む人々は歴史的な瞬間に立ち会うことが出来ました。
仙台育英学園高等学校、夏の甲子園高校野球大会 優勝!日本一!
あらためて、優勝おめでとうございます。(^o^)
100年開かなかった扉がとうとう開いた、歓喜に湧いた1週間。
大人も子供も人目をはばからず、涙腺うるうるの嬉し涙を流した。
ついに、奥州、陸奥国が天下を獲った瞬間でした。さぞや我らが政宗様も天国でお慶びのことかと思います。あっ、こういう時大河ドラマなんかでお決まりのセリフがありましたね。
「祝着至極(しゅうちゃくしごく)に存じまする」m(_ _)m
これも一重に須江監督を始め、仙台育英ナインの勝利に対する「執念」が実ったということなのかもしれません。
実は我らが伊達政宗様も勝利に対する「執念」では、仙台育英に負けてはいません。
それでは、政宗様が「執念の人」だったことを思わせるエピソードを紐解いていくことにいたしましょう。
まずは、天正13(1586)年の人取り橋の戦い。伊達軍7千に対して佐竹・蘆名連合軍3万の大軍を迎え撃って、鬼庭左月斎の討死はありましたが、何とか土俵際の徳俵で持ちこたえた。そして、翌朝奇跡が起きた!
なんと、連合軍が忽然と姿を消していたのです。これは、「持ってるな~政宗様」という見方も出来ますが、背水の陣で迎え撃った政宗様の執念が実を結んだのかもしれません。
次は、天正18(1590)年の小田原遅参でしょうか。再三にわたる上洛要請をのらりくらり戦法でかわし続けてきた政宗様。だけど、秀吉が20万の大軍を持って小田原城を包囲した時点で、サッカーで言うところのロスタイム(今だとアディショナルタイム)しか残っていなかった。底倉に押し込められていた政宗様がここでも執念深さを発揮する。前田利家を通じて千利休への茶道指南をリクエストする。これに興味を示して謁見を認めた秀吉に政宗様は一世一代の大博打を演じる!皆さんご存知の白装束のコーディネートで秀吉との謁見だ。演出好きの秀吉には、これが見事にハマった!これぞ、執念の決勝タイムリー!
しかし、怖いもの知らずの政宗様は、なんと葛西・大崎一揆に加担。扇動疑惑の弁明のために、再び天下人秀吉に謁見することに。まさか同じ手は通用しない。そこで今度は、白装束に黄金の磔柱のコラボで登場する。この時は、例のセキレイの花押の目に穴が空いてるとかいないとかっていう、大変苦しい言い訳をこれまた秀吉が気に入ってくれたのでOK!という9回ツーアウトからの大逆転劇を演じてしまう。(この逸話の信ぴょう性にも微妙なところがあります)
立派な仙台城だって、実は文禄の役で朝鮮に渡った際に、建てた数多くの倭城と呼ばれる城の築城技術を持ち帰って、仙台城の築城に役立てている。これも、ある意味執念だ。
最後まで諦めない、ネバーギブアップな精神で人をアッと言わせた我らが伊達政宗。
ひょっとして、政宗様の「伊達男」イズムが、優勝を手繰り寄せた一因だったりして!?
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。