仙台城ガイドボランティア会のブログをご覧頂きまして、ありがとうございます。m(_ _)m
すでに報道でご存じの方もいるかとは思いますが、2022年3月16日に宮城県を襲った震度6強の地震で傾いてしまった我らが伊達政宗様の騎馬像が修復のため、台座から切り離され、本丸敷地内の別な場所に鎮座されました。
7月8日には修理をする東京都内の工場へと仙台城を出発。修理を行いまして、仙台に凱旋するのは来年4月の予定とのこと。
政宗様が愛馬「五島号」(または後藤黒)にまたがったお姿で仙台城から出陣をされる。
実はこの光景、あるエピソードを知る人にとっては、大変感慨深いものがあるのです。
政宗様の愛馬「五島」を献上したのは、伊達21要害のひとつ不動堂要害(旧小牛田町)の城主だった伊達氏家臣・後藤信康(ごとう のぶやす)でした。
五島は黒い毛並みが美しい馬で、政宗様は戦の度に乗用し、五島をこのうえなく気に入っていました。「馬首が向かうところ戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る」と言われたんだとか。
人馬の息がぴったりの政宗様と五島号。漫画で例えるならば、北斗の拳のラオウとその愛馬「黒王号」もしくは花の慶次の慶次と愛馬「松風」といったところでしょうか。
しかし、戦場を一緒に駆け巡った盟友もよる年並には勝てず、衰えが見え始めます。
1614年(慶長19)大坂冬の陣の際、政宗様は老齢になっていた五島号を厩舎に置いて出陣をします。政宗様とすれば、五島号に負担を掛けまいとの気遣いだったのですが、「馬の心 政宗知らず」それが思わぬ方向に作用します。
五島号は「もう自分は政宗様のお役に立てないのなら……」と厩舎を抜け出し、本丸の崖から身を投じて亡くなったと今に伝えられています。
政宗様は、このことにとても心を痛め、飛び降りた蠣崎(かきざき)の地に五島を手厚く葬りました。そして、馬上蠣崎神社(後に移転し、跡地には馬上蠣崎稲荷があります)を建立して祀り、追廻馬場の守護としたそうです。
あれから400年の時を超えて、もちろんブロンズ像ではあるけれど、愛馬五島号とまもなく仙台城を後にする政宗様。五島号にしてみれば、あの時叶えられなかった思いが結実することになる分けで、これ以上の喜びはないのかもしれません。
きっと来年の春には人馬一体となった凛々しいお姿で、お国入り、入城されることでしょう。
それまで、仙台城は主が不在となりますが、私たち仙台城ガイドボランティア会のスタッフがしっかりと政宗様の留守をお預かりし、皆様のお越しを心よりお待ちしております。
その際には、馬上蠣崎稲荷まで足を伸ばして、五島号を偲んでみるのもいいかと。
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。