伊達政宗と能のディープな話 | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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仙台城のボランティアガイドが、仙台城の魅力や伊達政宗のトリビアな話を出し惜しみせず、ボリューム満載で語り尽くしまーす。(^_^)

仙台観光をお考えの方は、旅支度の前に予習としてご一読を頂ければ、仙台城が10倍楽しめるかも。

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仙台藩の初代藩主・伊達政宗公は、幾多の戦乱を乗り越えた戦国大名としてのみならず、豊かな趣味と教養を身に着けた文化人としても大変よく知られています。そんな政宗公がこよなく愛したもののひとつに、「能」があります。

能は今から670年ほど前に大成し、その基本をほとんど変えないまま現在に至るという我が国で最も古い舞台芸術であり、なんとユネスコの無形文化遺産にも登録されているのです。

政宗様も能にのめり込み、今のお金に換算して年間1億円ぐらい使っていたこともあったり、酒に酔って人の能舞台に乱入したという見事なエピソードをお持ちです。

そもそも秀吉~家康の時代。大藩では能が盛んだった。

朝鮮出兵のとき、名護屋城(佐賀県)では政宗様が前田家(この頃は利家)に、
「おーい、前田さん。うちの陣屋で能をやるから見に来ない?」なんてお誘いをしたっていう記述が文書として残っているんだそうです。「接待ゴルフ」ならぬ「接待能」だったんですかね。

政宗様は能の中でも、自分で舞うよりも太鼓の稽古を熱心にされていたんだそうです。そう言えば大河ドラマ「独眼竜政宗」の中でも渡辺謙さんが太鼓を叩くシーンが多かったような。

天正15年(1587年)の正月15日、政宗様19歳のとき、竺丸(弟の小次郎)と御東(お母さんのところ)に行って、太鼓の稽古をしたという母と兄弟の仲睦まじい微笑ましいエピソードもあったそうです。

そんな能をこよなく愛した政宗様が大変お気に入りだった「実盛」という演目があります。
簡単に説明をしますと、ストーリーはこんな感じです。

「実盛」というのは、人の名前で「源実盛」と言います。

 この実盛という人物なんですが、最初は源氏に仕えていました。あの木曽義仲こと源義仲のお父さん(源義賢)に仕えますが、義賢が討ち死にしてしまい、彼は養父となって、義仲を育てます。

時は流れて、実盛は平氏に仕えるのですが、有名な倶利伽羅(くりから)峠の戦いで平氏は敗戦。
養父だった実盛は自分が育てた義仲の軍と戦い、あえなく討ち取られてしまいます。

家来が大将義仲の元に実盛の首を持っていったところ、疑問が生じます。
齢60(実際は70歳)過ぎの武者の首がどうして髪も髭も黒いのか?本当に実盛の首か?

そこで、家来はこう答えました。

 実盛は常から、六十歳を過ぎて戦場に出る時は、 髪(かみ)、鬚(ひげ)を墨(すみ)で黒く染めて、年より若く見せようと思うといっておりました。若者たちにまぎれて先駆けをするのも大人気はなし、さりとて老武者と侮どられるのも口惜しいからじゃと申しておりましたが、やっぱりその通りにしたものと見えます。

武士としての誇りをもち続けるために、髪を黒く染めていた実盛。義仲がすぐに首を池で洗わせてみると、その通り白髪があらわになった。それを知った義仲は人目をはばからず、泣き崩れたと言う。

ジーンと来る話ですね。

さて、時は寛永8年(1631年)に若林城にて政宗様がお寺のお坊さん達を招いて、能会を開きました。

そこで、この「実盛」が演舞されたんですが、そのとき、政宗様ははらはらと涙を流した。そして、一緒にいた伊達成実(だてしげざね 三浦友和さんが演じた人ね)と手に手を取って泣いて、泣いて、泣きまくった。どれだけ泣いたのかというと、二人の袖がびしょびしょに濡れるぐらいに泣いたと、「木村右衛門覚書」に記されているそうです。

能の感動秘話とお二方の過去の戦場の回想がシンクロして、涙腺爆発に繋がったんですかね。

政宗様のそういう人間味が溢れているところって、やっぱり素敵だなぁ。!(^^)!