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「始祖」とは、ある家系の最初の人のこと。「初代」と言った方が馴染みやすいでしょうか?
徳川家康は徳川幕府の初代将軍ではありますが、松平家としては9代当主に当たります。始祖は松平親氏(ちかうじ)だとされています。
ということは、我らが伊達政宗様にもお父さんがいて、そのまたお父さん(お爺さん)がいる分けですから、順々に先祖をたどっていくと「始祖」、「初代伊達○○」さんがいるんです。
では、その「初代伊達○○」さんとは、いったいどこの誰なのでしょう?
その方はWikipediaによりますと、「伊達朝宗」さんが伊達宗家の初代当主ということになっています。
実はこの人「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」で有名な源頼朝のいとこなのです。
朝宗さんのお母さんが頼朝の祖父の源為義の娘だったのです。(朝宗のお母さんと頼朝のお父さんは兄弟なんです)だから、母方つながりのいとこってことになりますね。
名前をよーく見てみるとほーら、源氏の通名である「朝」の字が入っているでしょう!
この朝宗さんには娘(大進の局)がいたんだけど、な、なんとあの源頼朝公の側室になってしまうのです。(頼朝は政子が怖かったはずなのに、色好みだったらしく)
さらに、大進の局は子供(男)まで生んでいる。
血縁的には頼朝公とは相当濃い絆で結ばれている、朝宗さん。
お住まいは常陸国(今の茨城県)真壁郡伊佐荘中村ってとこに住んでいまして、名字は「伊佐」または「中村」を名乗っていた。だから、「伊佐朝宗」、「中村朝宗」さんだったのね。(諸説あり)
平穏に常陸国でのんびりと暮らしていた朝宗さんのもとに、運命を揺るがす一大事件が起きる!
そう、きっかけはいい国作ろうのあの人だ!(鎌倉幕府の成立年には諸説あります)
平家という当時の悪の帝国を壊滅したスーパーヒーローのはずなのに、気が付いてみれば兄頼朝から追われる身となったのが源義経。奥州藤原氏へ落ち延び、その義経をかくまった罪で藤原泰衡を追求し、藤原氏を滅ぼすべく、「奥州合戦」、「奥州討伐」、「文治の役」と呼ばれる戦へと発展する。
頼朝は御家人たちに総動員令を発した。その時、頼朝のいとこである伊達家の始祖朝宗さんにも当然お声が掛かった。「朝宗クンも奥州行くよね!」、「もちろんです!」って二つ返事でYESと答えたのか、パワハラまがいの嫌々だったのかどうかは定かではありませんが、こうして奧州従軍を決めた朝宗さん一族。
この奥州合戦で親子共々目覚ましい軍功を上げたので、そのご褒美として伊達郡(今の福島県伊達市)を拝領し、領内の桑折郷高子岡に城を築いて居住するようになります。そうは言っても、初めは本拠地である常陸国がメインで、伊達郡はサブみたいなもんだった。そのうちに、三代目の伊達義広さんは桑折郡の粟野に屋敷を構えて住んだり、七代目の伊達行宗さんなんかは常陸中村と伊達を行ったり来たりしていた。それが徐々に伊達郡の方に軸足を移し、伊達地方を治めていて、伊達に住んでいたので代々「伊達」を名乗っていったということになるのです。(諸説あり)
こうして、「伊達家」が歴史の表舞台に登場したってことなんですねー。(^o^)
伊達家にしてみたら、東国(関東)には有力なライバルが多いんで、与えられた陸奥の国の方が治めやすいし、領土拡張も期待出来たってことになるのかな?!(^^)!
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。