災害大国日本。
いわゆる「非常事態」の定義には、地震、台風、洪水、津波、雪害、火災…とありますが、挙げていくと1年中毎日、どこかで災害が起こっている計算になります。
実は日本は1年中「非常事態宣言発令中」なのです。
このため先人は「備えあれば憂いなし」といった戒めの言葉を残しています。
ところがこれがないがしろにされているのが、残念ながら日本の現状です。
実際には毎日が非常事態の日本なのですが、「いつくるかわからない災害に対して備える金銭的余裕などない。」として特に何もしないというのがいまだに根強くあります。
ここには「事故や災害で人が死にでもしたらカネで補てんすればよい。保険もあることだし。」などという「甘い考え」があるためであるとも言われます。
しかしこのような考えは根本的に「人の尊厳」への挑戦、すなわちその冒涜であり、人権侵害です。
2011年3月11日に発生した2011年東北地方太平洋沖地震によって引き起こされた東日本大震災、原子力発電所の大事故はその「甘い考え」へのまさに「天罰」ともいうべきものになりました。
今後少なくとも半世紀にわたって続く事故処理、まわりまわって国家財政すらも破綻させかねないほどのとほうもない出費…と「人権はカネではとても買えない」ことを改めて知らしめることになりました。
今、延々と「結果論」が繰り返されています。
しかしそれは愚にもつかないことです。
なぜならば結果論だけならば誰でもいくらでも言えるからです。
過ちを直ちに正し、現実のものにして二度と繰り返さない。
すなわち具体的実行が伴わなければ、亡くなられた方々はもちろん、被災され、さまざまな困難と今この瞬間も闘われている方々は決して報われることはありません。
それが本当の意味での「償い」であり、銭金とは全くの別物です。
いわゆる先進諸国中で「人権」が「最も安い」のは日本と分析している人がいます。
アジア・太平洋諸国が何かあると日本の「戦争責任」を持ち出してくるのは「信用できないから」すなわち戦前・戦中の「赤紙」から今日に至るも日本人それぞれの考え方そのものがさほど変わっていない、すなわち戦後の民主化の過程において「人権」を理解できなかった日本人は戦後、国内外を問わず、特に「人権侵害」に対してはすぐに「最終的な結果」である「カネ」で対応するようになり、これを定着させてしまった。戦争は最悪の人権侵害であるが、人権を理解できず、結果、「カネ」にすりかえてしまった日本と日本人は怖い。
戦争放棄を明記している日本国憲法もこれでは危ないもの。
またそのために「カネは絶対権力」としてひたすらこれを追うことになった日本人は、諸国の人々から「エコノミックアニマル」と揶揄・軽蔑され、諸国から「日本は本当の意味での民主主義国家ではない」と酷評される結果になってしまっているのだと分析している人もいます。
確かに考え方はさまざまでしょうが現実的にこと災害対策に関しては、もうどうしても主体的・根本的に考え直し、早急に概ね一定の方向性を見出し、実行しなければならない段階に至っていることだけは確かです。
私たちは忘れずたゆまず「具現化・実行」で示さなければなりません。