年末の最後の考察は、日本人の意識の深層にある東西の分断について、浅く考察しますwww
怨霊担当の私は、年の瀬もせっせと怨霊たちの名誉回復と鎮魂に勤めます(笑)。
先週の将門公の記事を書いていて気づきました。
西では嫌われていて、東では神様の典型例が将門公。
明治になって隠された神田明神の平将門公。
現在では、東京の神田明神の主祭神は「大国主命と少彦名命」となってます。
しかし、それは明治天皇が皇居に引っ越してきてからなのです。
江戸時代には神田明神は平将門公を祀っていた。
平安時代の関東は、京都から下級貴族が派遣されていた。
関東に縁もゆかりもない下級貴族が中央から派遣されてきて、国衛の役人として権力をふるい、私腹を肥やしているのを快く思っていなかった。だからこそ、かれらは関東の「独立」を図った将門を支持したのである。
神田明神のそもそもの由来は、
将門の英雄的行動を記憶し語り続けること、言い換えれば、祀り続けることが将門への最大の供養であった。そして、将門の霊を合祀したというこの「傍らにあった社」が、のちの「神田明神社」(神田神社)の前身であった。
(中略)
いずれにせよ、中世には、将門塚の脇には「神田明神」という将門の霊を祀る社があった。この神田神社の祭神が将門の霊だけなのか、それとも「神田」の名が語るように、別の神も合祀されていたのかは、もはや定かでない。
移転に際して、関東の領主となった家康は、遠い昔、朝廷を向こうに回して関東の「独立」を図った将門に大いに感じるところがあったのだろう、神田明神を山王権現とともに江戸総鎮守とした。神田明神は思いもかけなかった破格の出世をすることになったわけである。
家康は、将門公にシンパシーを感じていたようです。
江戸時代に、どういった経緯かは不明だが、大国主と少彦名も祀られるようになったようです。
しかし明治に、明治天皇が東京にやってきてから、事情が一変。
当時、宗教行政を担当していた教部省は、神田神社の祭神から朝敵であった将門の霊を除くことを主張し、第一の祭神と信じる氏子の抵抗にもかかわらず、将門の霊は祭神の地位、つまり本殿を追われて摂社にされてしまったのである。もっとも、当時の状況から判断すると、完全に追放されずに摂社としてであれ留まることができたのは幸運であったと言うべきかもしれない。
この処遇に関して、江戸っ子は以下のように対応。
戦後に骨抜きにされる前の、当時の江戸っ子は気骨がありましたね。
その主張には道理が通ってます。
徳川将軍家のお膝元の江戸っ子たちは、天皇にこびへつらっている輩を将門の霊の威徳に背く人非人だと非難し、一文の寄付をするのも惜しみ、例祭をボイコットしたというのである。
神田明神の主祭神は変わってしまいましたが、出雲系の国津神なのが、何かとても示唆的です。
国を譲らざるを得なかった国津神系と、天津神系の子孫から独立しようとした平将門公は、親和性が高いのでしょう。
将門公と縁の深い道真公ですが、神田明神の近くに道真公を祀っている湯島天神があります。
京都の北野天満宮は、道真公の祟りを鎮めるために祀っていますが、湯島は純粋に天神様として祀っているように感じます。
西では朝敵、東では人気の神様の典型のお二方。
記紀に出てくるもう一つの国譲り、大和の国譲りをした長髄彦は、一説によると最終的に東北に逃れたことになっています。
この長髄彦の国譲りも、国津神系と天津神系の対立の象徴ですね。
つまり何を言いたいのかというと、国津神系 vs 天津神系の対立は、潜在的に日本の東西対立に現れていると思うのです。
これから国津神系が復活するのならば、それは東京以北の北日本が中心になるはず。
そしてその中心になるであろう土地は、日高見国の中心があった常陸、つまり現在の茨城です。
國體側の方々が口を揃えて言っているので、一旦西の京都・奈良に中心が移ると思わせつつ、茨城をもう一つの中心に据えてくるのではなかと睨んでます。
西は国譲りから今まで日本を牽引してきましたが(明治以降から今に至るまで山口の田布施出身者が仕切ってきた)、そろそろ文明の転換期を迎えて、レムリアの遺伝子が強いと思われる東に主権を本格的に移譲しないと、つぎの文明が出てこないのではないかな。。。
伊勢白山道さんも東北を示唆。
茨城は皇祖大神宮を含めて、興味深い神社や文書がたくさんあります。
まだまだ調べきれていないので、これらも来年の課題に。
将門公に関しては、こちらの記事も面白かった。
年の瀬の移動の前に駆け足で書きました。
誤字脱字は後ほど修正します。
読んでいただき、ありがとうございました!