遅い時間の更新となりました。
記事自体は書きあがっていたものの、何かが足りない。。。
勤務後に「これかな?」というものを足してみての発表となります。
まず前振りです。
夏至を過ぎて、この四半期で書いた記事を読み返していたのですが、玉ちゃんの「夏至が分岐点」って、シューマン共振の爆発のことだったのではと思いました。
旧暦5月5日は、日月神示に何度も出てくる重要な日付。
「黄金の金玉を知らないか?」から。
今はシューマン共振は静かになってます。
「寝てるのか?」っていうくらい静か。
今年の夏至が分岐点と感じたのは、愛知ソニアさんの以下の動画をみていたから。
ソニアさんが、エジプトの「死者の書」について語ってますが、アセンションのプロセスが書いてあるとおっしゃってます。
冥界を旅して戻ってきた女神イナンナも、アセンションプロセスを体験している。
イナンナの冥界での体験はTOLAND VLOGさんが詳しく説明してくれてます。
「冥界=黄泉の国」ならば、イナンナにイザナミとの共通点を感じます
「冥界=5次元」とすれば、「アセンション=隠身になること」と解釈できます。
「死者の書」についても、今後調べてみます。
では本題に。
遂に最終回を迎えた少女革命ウテナ。
今までのウテナシリーズ。
これ以外にも、冒頭で紹介している記事はあるのですが、カバー画像にしてるものだけピックしてみました。
三十七話はシリーズの中で一番好きな回です。
とても抽象的で、見る人によってそれぞれのシーンの解釈は違ったものになるでしょう。
ミッキーと樹璃とウテナでバトミントンをするシーンが、見てると泣けてくる。
この連続の三話を見て、ウテナに対して感じたのは「YAP遺伝子」(ウテナは女性ですけどねw)。
25年以上経って1997年のこの作品について書く日が来るとは、正直想像してませんでした。
しかし書きながら理由が分かりました。
8月から世界秩序や、今まで当たり前だと思っていたものが崩壊てゆくと思われます。
(逆に今年やらないと、完全に星々の後押しを逸してしまうので。)
それはある意味「世界革命」だから。
以下、ネタバレ含みます。
暁生とアンシーの関係を知ってしまったウテナ。
暁生に恋しているウテナの心境はとても複雑。
三十七話では、二人のオンナの闘いが静かに繰り広げられる。
しかし、暁生を好きになって、アンシーの苦しみが理解できるようになったウテナは、世界を革命する決闘に赴く決意をします。
「知らなかったのか。ボクはバカなんだよ」
もう、完全に高倉健。
「男は黙って高倉健」ですよ(笑)。
自分は守られるお姫様ではなく、守る側の王子様になると、決定的にウテナが意思を固めた瞬間に、天空の城、お姫様と王子様が永遠に幸せに一緒に暮らす場所が崩壊する。
決闘場の天空の城が崩れ始めたのは、あの瞬間、ウテナが世界を革命して、既存の殻を打ち破ったからでしょう。
つまり、今まで属していた世界が崩壊した。
自分が慣れ親しんだ世界を崩壊させまいと、アンシーはウテナを刺したのだと思います。
しかし、ひたむきに、純粋にアンシーを助けようとするウテナが、アンシーの心を変える。。。
エンディングの直前のシーン。
暁生は自分の世界を革命すること(枠の外に出て変化すること)を拒んだ。
アンシーが好きだったディオスはもう存在せず、堕天使ルシファーに成り下がった暁生がいるのみ。
それをウテナのお陰で気づいたアンシーは、世界の殻を破って旅立ってゆくのです。
エンディングの後のシーンが美しかったですね。
猛毒のギャグを含みながらも、繊細で美しく品が良く、時に鬱屈し、メタファーを多用するので難解で一筋縄には行かない。
見ている側のセンスが問われる。
けれどやっぱり美しい。
「ウテナ」は私にとって、そんな作品です。
いまだに分からないのは、アンシーを貫く剣のメタファー、「王子様の代わりに剣を受ける」ということ。
王子様的な男性のパートナーの女性に集まる嫉妬のことを暗喩しているのでしょうか?
それとも、「剣=面倒なこと」を女性にやってもらい、自分のやりたいことに集中する男性の様を暗喩しているのか?
剣に貫かれるアンシーを見ていて、私は亡くなった小林麻央さんを思い出していました。
生前は海老蔵(今は襲名して団十郎に)を守るように、海老蔵の周りを彼女のエネルギーが包んでいたと思うのです。
素行が悪かった海老蔵に集まる様々な念を吸収してしまい、病で早逝してしまった。。。
ウテナを見ていると、作り手の意図が気になると思います。
ここからは、クリエーターたちの作品創作の意図を紐解いてみます。
意外に思われるかもしれませんが、他の多くのアニメがそうであるように、メインのクリエーターは全員男性です。
ウテナという、唯一無二のアニメキャラの人物像を、総監督の幾原邦彦氏はこのように説明しています。
僕はロマンとは、少年のものだろうと思う。ロマンティックは「少女」のものだ。
『少女革命ウテナ』の主人公の天上ウテナは男装の少女だ。
彼女は、素敵な男性との恋に、自分の運命に、そして、世界に、果敢に挑んでゆく。
彼女は、少女のロマンティックと少年のロマンを同時に持つキャラクターだ。
だから、ウテナは男装する。
少女でありながら、少年の「ロマン」を手に入れるために。
世界に立ち向かうために。
「世界を革命する」とは、社会システムの外に出るということ。
幾原監督は、御影草時のメインの回『デュエリストの条件』を、こう解説しています。
システムとは否定した瞬間、それこそが自分の立っている足場であることに気づかされるものだ。
御影はシステムのカラクリに気がつき、慌てて修正しようとした。
だがシステムを作った大人は「もうやめよう」と一方的に幕を下ろした。
幻のシステムは終了した。
御影は、そこにいられなくなった。
だから関わった者たちの記憶から消えた。
薔薇の花嫁という装置のやり取りによって、人は幸福になったり不幸になったりしてはいけない。
ウテナは決闘のシステムを否定する。
しかし。
やがてウテナは、決闘のシステムとその場所から否定され、そこにいられなくなる。
ラストシーンの予感だった。
シリーズ構成、メインの脚本の榎戸洋司氏は、本作品の骨子をこのように語ってます。
「もうすぐ新世紀だね」
じゃあ、最後にもう一度だけ。
革命とは、支配されるものが、その支配のシステムを破壊することである。
少女革命とは、だから少女が、少女を支配するものから自由になる物語だ。
殻を破って、外に出る物語。
でも、少女革命の少女という言葉は、どちらかというと、システムの中に拘束されている人の象徴として使っている。
見えない檻。見えない鎖。見えない壁。見えない殻。
それは居心地のいい棺の中で、ゆっくりと死んでいく長い午後。
ーーーあのとき、気がつけば、いつのまにか死よりも恐ろしいものの影に僕はすっかりと囚われていた。
手にしたガラスコップの水に冷たさはなく、人の言葉はマニュアル通りで、町の色彩に共鳴する心をほとんど喪失しかけていた。
まずい、なんとかしなければ、とあがき続けた末に作ったのが、この『少女革命ウテナ』だった。
世界に果てなんてない、僕たちが進んでいけばそれだけ世界は広がる、
果てと思い込んだ向こうには必ず”外”がある、という想いを込めて。
けれどーーー
そこには”自由”という恐ろしいものが待ち構えていた。
外とは、自由の恐ろしさを実感できる場所でもある。自由の恐ろしさと戦い続ける場所である。
なのに、そんな場所を、どうして人はめざすのでしょうね(笑)。
これはウテナの映画版の寄せ書きなのですが、映画版ではよりストレートに「外に出る」が描かれています。
この作品の、堕天使ルシファー暁生を支配層、少女やお姫様を庶民と読み替えてみると、男性陣でも物語に共感できるはず。
これから、今までの社会システム、金融資本主義、戦後のアメリカが作ったレジームが崩壊してゆきます。
これを「システムの外に出る」という表現をすれば、そうとも取れると思います。
自ら出るという、自発性を伴った行為ではなく、支配層に壊されてしまう違いはあるのですが。
どうせなら「自ら外に出る!」という気概を持ちたいですね。
それがあるのとないのとでは、翻弄され具合が全く違ってきますので。
やたらと宇宙人やUFOネタが多い本作ですが、理由はここにwww
同じく幾原監督の作品解説、第三十話『裸足の少女』から。
自分らしく生きようと思った。
”自分らしく生きる”とは”宇宙人として生きる”ということ。
でも。
宇宙人の乗り物、UFOも時に操縦不能になり、障害にぶつかる。
それは影絵のお話ではありません。
幼少期に母子二人の母子家庭で育って、母親から逃れたいという思いが強かったせいか、「いつかUFOに乗った宇宙人が自分を迎えに来て、いままでの生活とは決別する」みたいな妄想を拠り所にしていたと、Newtypeの別冊でのインタビューで答えていたのが印象に残ってます。。。
一人息子だったので、まだ少年であるにも関わらず、母親の想いを一身に受けなければならなかったことが大変な重荷だったことは、想像に難くないです。
ちと切ないですね。。。
子供っぽいって意味じゃなくてね。「子供の頃の心」を自分の内にずっと持っているんじゃないかと思う。幾原さんは、昔の思い出とかをすごく大事にしているんじゃないかな。そういうことを大切にしながら作品を作っている気がするんだけど。私なんか、全然覚えていないもの、小さい時のこととか。『ウテナ』は、なんだか、全体的に青春っぽい感じがするというか、人が思春期にぶつかる問題が全て凝縮されている感じがします。
余談ですが、三十八話の作画監督の林明美さんは、2021年のエヴァンゲリオン完結編『シン・エヴァンゲリオンII』でも作画を担当されていて、『シン・エヴァンゲリオンII』のエンドロールで彼女の名前を見た時は感動しました。
まだまだ第一線でご活躍されているのですね!
上の動画は一週間で消えてしまうので、最終回のエンデイングを貼っておきます。
私はアンシーやウテナのように世界を革命したのかもしれない。
かなり自由に生きさせてもらったのだけは間違いない。
しかしそれで幸せだったのかは、死んでみないと正直分かりません(笑)。
Blu-ray BOX版があるので、気になった方はご購入あれ。
先に紹介した劇場版も、下巻に含まれているはず。。。
私たちが、これから目撃する世界の有様が「革命」なのは、間違いない。
その前に、心構えとして「革命とは何ぞや」と、問いを立ててみたのが、今回の記事でした。
最後に、幾原監督の最終回の解説を引用して終わりにします。
後に何度かの変遷を経て現在のような物語になったのだが、彼(ディオス、暁生)は、確かに”革命の塔”の頂上にたどり着いたのだ。
そこは”永遠”がある場所だった。
そして”永遠”とは眠り続けることであった。
眠り続けて大人になってしまった王子様(暁生)が失ってしまったもの。
それは「楽しい未来を創造する力」だ。
革命とは「未来を想像する力」を得ること。
王子様は眠り続けることを選び、お姫様は目覚めることを選んだ。
その高い塔の上で、お姫様は王子様に別れをつげた。いや、もうお姫様ではなかった。
彼女は”誰かに支配された者(物)”であることをやめた。
勝利の鐘がなるが、その向こうには既に”塔(ルール)”はない。
彼女は自由の在り処を知った。
あの開かなかった”革命の扉”を超え、彼女は歩き出した。
”少女革命”は少女の未来にあったのだ。
「待っててね、ウテナ」
世界(舞台)は、自由で広い。
長文読んでいただき、ありがとうございました!