この記事を読み終わる頃には、高鴨神社の「王朝雅御守り」が欲しくなるかもしれません(笑)。
そもそも「葛城」と聞いて連想するのは↓。
「ミサトさあぁぁぁぁん!!!」
学生時代、ドップリとエヴァにハマっていたものですから。。。
この前、高鴨神社で「王朝雅御守り」を買ったからなのか、それとも上賀茂・下鴨神社の神域参拝を行ったからなのか。
「御所、葛城も時の権力によって封印されてしまった地なのでしょう。」と書きましたが、皆様に度々紹介していた本にヒントがあった。
実はこの記事を書くまで、紹介者本人は全然読んでいなかったという(汗)。
それが仕事が開始してしまう前日に、急いで大掃除第二弾をやっていて、この本をどこにしまおうかと思ってパラパラしたら、「!!!!!」(笑)。
この本の5章のタイトルに「八咫烏・葛城系の正統ヤマト朝廷が百済王族・藤原系に乗っ取られるまで!」って、はっきり書いてありますやんwww
ちなみに私の大学時代のゼミの先生が、実は八咫烏と関係がある人だったことも判明してですね。。。
奈良県吉野町の名家の出の方です。
八咫烏とは、昔から不思議なご縁があったようです。
蘇我氏の血を引いていた天武天皇。
天武系の最後の天皇が、女帝の孝謙天皇(重祚して称徳天皇)。
それ以降は天智天皇系とされています。
重祚した称徳天皇が崩御して、天武系の最後となるので、それは出雲族から続く蘇我氏の血を引く天武の系統が終わったということ。
それは同時に、縄文と交わっている出雲系王朝の終焉でもあり、縄文の完全な終わりを意味している。
「縄文はいつ終わったのか?」が、ずっと謎でしたが、年末に答えが出た。
出雲国譲り>神武東征>雄略から武烈の異国?の王の跋扈>乙巳の変>天武系の消滅
で徐々に縄文は薄まってゆき、表からは消滅した。
やはり、乙巳の変=藤原氏の登場が、かなり決定的だったように思います。
天智・天武の母である皇極天皇も重祚して斉明天皇となってる女帝です。
他に女帝といえば推古天皇、持統天皇。
女帝の時代は混迷していて、系統が入れ替わりますね。
ではこの本の内容を紹介してゆきます。
まず賀茂氏の系図から。
八咫烏の祖は賀茂建角身命=アジスキタカヒコネ。
TOLAND VLOGさんのアジスキタカヒコネ編がわかりやすい。
ざっくりとまとめると、
スサノオ > 大国主 > アジスキタカヒコネ
となる。
山城賀茂氏(京都)と葛城賀茂氏(奈良)は、山城=天津神系、葛城=国津神系である、という説もあり、諸説あるようです。
山城系が上下賀茂神社の禰宜職に、葛城系は陰陽道宗家に、それぞれなってます。
しかし京都は元々は出雲族の土地であり、山城系も葛城系も祖神はスサノオなので、遡れば同族になる。
記紀での記載があまりにも短いのと、各天皇が異常に長寿なので実在が怪しく、欠史八代とも言われる、綏靖天皇から開化天皇までの時代。
この8代の天皇が主に宮を構えたのは、橿原市と御所市。
この8代は葛城地方と縁が深いので、ヤマト王朝(三輪王朝)に先立つ葛城王朝なのではないかと、鳥越憲三郎は『神々と天皇の間』で記載している。
「欠史八代=葛城王朝」であると。
延喜式(最高格式)の名神大社が葛城地方に集中していること、「御所」という地名が残っていることから推測したようです。
高天彦神社、高鴨神社、一言主神社、葛木御歳神社、葛木水分神社、鴨都波神社。
これらは賀茂氏に関係する神社。
暴君で有名な雄略天皇が葛城氏=葛城王朝を滅ぼすのですが、「日本書紀」にはどちらが王なのか分からない、一言主神との対峙シーンがあります。
雄略は「恐れ多くもわが大神よ。現実にお姿をお見せになっていたものですがら、気がつきませんでした。」と言い、自分たちの持ち物を武器も含めて一言主神に献上するシーンがあるのです。
ここだけ読むと、一言主こそ王だと読み取れます。
しかし最終的には雄略天皇によって土佐に流されてしまう。
『土佐国風土記』には「一言主神=アジスキタカヒコネ」とある。
神武から雄略までの時間軸が合わないので、「アジスキタカヒコネ=葛城氏、賀茂氏」の始祖という理解で良いかと思います。
ヤマトは新羅派だったが、雄略天皇は百済派で、葛城氏を滅ぼしたのちに、新羅に出兵して百済を再興しています。
この一連の横暴な流れで、雄略天皇から国内の豪族と民衆は離れてしまいます。
この反応から確認できるのは、元々は一言主神=葛城氏こそが、民衆と豪族の支持を得た正統な王だったということです。
これを機に、葛城氏(賀茂氏)は渡来系の秦氏と共に山城(京都)へ移住したと『山城国風土記』にある。
秦氏についてはこちら(今回紹介している書を、最初に紹介した3月の記事です(汗))。
第二十一代が雄略で、第二十五代が歴代最悪王の武烈。
藤原に都合のよい歴史書「日本書紀」ですら、この二人を痛烈に批判している。
雄略は身内をころしまくって即位。
武烈は極刑をご覧になるのが趣味だったヤバい人。
武烈は幸い子供がいなかったので、ヤマトの豪族たちは、蘇我氏系列の継体天皇を越前から連れてきて即位させている。
ここから蘇我氏の繁栄が始まる。
(継体は中国の越王朝の末裔かと疑っていたのですが、遡れば出雲系でした。失礼しました。)
雄略が百済大好きで横暴で残虐、武烈は残虐非道なのを考えると、二人とも大陸系なのでは?という思いがよぎります。
では葛城氏と蘇我氏を繋ぐ線はどこかというと。
両族とも本拠地は御所市。
そして遡ると賀茂建角身命(アジスキタカヒコネ)の孫、劔根命で繋がるそうです。
このことから分かるのは、賀茂氏、三輪氏、葛城氏、蘇我氏は同族だということで、古代ヤマトの豪族は殆どが葛城系(出雲系)だったということだそうで。
特に皇后は神武から4代連続で賀茂氏・三輪氏系だったのは通史で確認済みらしい。
その葛城王朝とも繋がる蘇我氏を、どうやって中大兄皇子(天智天皇)・中臣氏(藤原氏)で滅ぼしたのかは、「序破Q」シリーズで書いた通りです。
若干逸れるのですが、気になる記述があったので要約してメモ。
「日本最古の神社と言われている大神神社だが、江戸時代末期までは、単に祭りといえば葵祭(賀茂社)のことであり、単に神というならば、それは大物主(三輪社)を意味した。
現在国内最高格とされる伊勢神宮の祭神は、かつては大神神社に祀られていた。」
「真名井神社の神主は、海部氏が代々世襲する。彦火明命を祖とする家系図は、国の最古の家系図の認定を受けている。それは天皇系より家系が古いことを意味する。近年になって、彦火明命が賀茂別雷神と同じ神であることを、神社自ら明かし、同神社の賀茂祭りと同じ日に行われる『藤祭』を『葵祭』と改めた。」
『藤祭』。祭りの名前の強要にも藤原氏の影が。。。
葵といえば、徳川家の家紋ですが、実は賀茂氏の家紋も葵。
経緯を確認できていないのですが、この書によれば、源氏=葛城系、平氏=藤原系なのだそう。
「皇室出身の、源氏、平氏というのは、母方の血統が条件に満たず、天皇になれない皇子達へ与えられた苗字」
源氏の大将に与えられるのが、征夷大将軍であり、平氏では征夷大将軍にはなれない。
なので平氏系(藤原系)である豊臣秀吉は、関白にしかなれなかった、ということなのだそうです。
「徳川に仕えた服部半蔵。服部は『はたおり』が訛った。『はたおり=秦氏』で、服部は秦氏系。」
「『後漢書』で邪馬台国がヤマトを意味していたことが確認される。「やまたい」は「やまと」が訛って記載されていた。」
「NHKドラマ『聖徳太子』でも、古代は天皇の象徴が八咫烏で、天皇の衣装には八咫烏が入っていた。」
「古来ヤマトにおいて、国家は皇国であり、国民は皇民であった。これに対し、民衆が不満を持ち反発したという記録はない。こ皇国と皇民の関係は、支配者と被支配者という関係ではなく、御祖と御子の関係であったからと推定される。」
縄文では争いの形跡がなかった史実と一致します。その輝かしい歴史を完全に破壊したのが藤原氏。
「天武天皇は伊勢神宮を天皇家の守護の社と定めた」
「八咫烏の系譜である徳川家を倒して、政権をにぎった明治政府にとっては、八咫烏や古代史は封印しておきたかったものである疑いが残る。陰陽寮もこの時に廃止されている。」
「関連神社の証言に『明治政府からの強い要請により変更をよぎなくされたのは、長い社史のなかではつい最近のことであった』」
以上。
長々と「藤原氏」をディスってきましたが、百済系藤原氏も賀茂氏と婚姻関係を結んで、結局は出雲系に取り込まれてゆきます。
不比等でさえ蘇我娼子と婚姻している。
その後も悪の限りを尽くし、日本を牛耳っていゆく藤原ですが、その悪の気性は残っているものの、結局は日本と同化してしまいました。
女系で取り込んで同化させてしまう。それが「和を以って貴しとなす」の本質。
いい記事だったので、再度リンクを貼っておきます。
これが日本国の姿でしょう。
これから日本の人口が激減して、大量の外国人が日本に移住してきます。
明治以降の日本の支配層がそのように動いていますので、この流れを止めるのは難しいでしょう。
縄文が濃い出雲は、一見消えてしまったように見えてますが、根底には脈々とその気質と血は受け継がれています。
このサイレントな戦略が、これからの日本人の生き残り方のヒントの一端になればと思いながら、このシリーズを終わりにします。