三輪豪族、長髄彦(ナガスネヒコ)と饒速日の関係を調べていたら、この著者に行き着きました。

田中英道さんは東北大学の名誉教授で、フランス、イタリア美術史研究の第一人者です。

 

現在はどちらかといえば日本美術の研究で有名で、「ユダヤ人埴輪」の著者といえば分かる方もいらっしゃるのでは。

 

 

 

今回はこの著者の京都に関する考察の書を紹介します。

 

 

 

経済や政治の中心は東京ですが、日本歴史の中心は今でも京都だと思います。

御所から大徳寺にかけて歩いていると、あの名家もこの名家もこの辺りにあります。

 

桓武天皇は平城京から長岡京へ遷都、最終的には794年に長岡京から平安京に遷都して今の京都が始まりました。

理由としては、桓武天皇はそれまでの天皇である天武天皇ではなく、天智天皇の血筋です。

この時点で天智天皇系の天皇は久しぶりなのです。

なので、それまでの天武天皇系の勢力の一掃が遷都の目的だったようです。

http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/mukashi/pdf/m-p77-81.pdf

 

長岡はこのとき既に秦氏の街で、藤原家とも血縁を結んでしました。

平安京の設立には秦氏が深く関わっています。

ちなみに平安京初期の人口は、3分の1が帰化人だったそうです。

 

秦氏に関しては諸説あるようですが、ネストリウス派キリスト教徒(景教)のユダヤ人として話を進めます。

 

秦氏の由来は「日本書紀」によれば、応神天皇(4世紀ごろ?定かではない)のときに弓月国から渡来した人々となっています。

雄略天皇(考古学上実在が確定している最初の天皇)の時代(475年ごろ)には、土木・灌漑・水田・養蚕・織物の技術を背景に既に富を築いていた。
 
秦氏の歴史といえば、「秦氏本系帳」です。
これによると、家系が秦の始皇帝から始まり(!!!!!)、弓月国の国王を経て秦酒公になり、日本での秦氏になってゆく。
「新撰姓氏録」(嵯峨天皇が命じて編纂された古代氏族名鑑)によると、弓月国王が応神天皇のときに沢山の民を引き連れて日本に「帰化」した。
 
この大陸由来の発想が、日本の風土に合わない、碁盤の目に仕切られた幾何学模様の都市を作ったわけです。
自然との調和のほうが日本人の感性には合ってますが、それを曲げてシンメトリーの都市を作ったのは作った人々が大陸から来ていたから。
 
秦氏は沢山の神社の造営に関わってますが、八幡神社の総本宮の宇佐神宮、京都の八坂神社、伏見稲荷大社、松尾大社は秦氏の造営です。

京都といえば、上賀茂神社・下鴨神社がありますが、2社を造営した賀茂氏は、雄略天皇の時期に奈良県の葛城地方から一緒に木津川流域に移住してます。

「秦氏本系帳」によれば2社の造営にも秦氏は関わっており、賀茂氏とは婚姻関係にありました。

賀茂氏はヤタガラスと言われてますが、賀茂氏=ヤタガラスを検索したら、いきなり以下が。。。

 

 

「京都はユダヤ人秦氏がつくった」の中でも、田中さんは何度も男系が途切れいてることを指摘してます。

セレンディビティ、怖い。。。

 
秦氏の中でも特に有名なのは、秦河勝でしょうか。
今の平安京の中心の大内裏を造営した人物、聖徳太子の側近であり護衛の軍人、聖徳太子から半跏思惟像(太秦の広隆寺)を賜った人物です。
雅楽の東儀家も秦河勝の子孫です。つまり雅楽も秦氏由来だということ。

 

 

西陣も、織物が得意だった秦氏由来の可能性があります。

 

能の「風姿花伝」にも秦河勝は出てきます。能の文化の先祖は河勝と言ってます。

聖徳太子が河勝に西域(ササン朝ペルシャかな?)神々の66(!!)番の面を与え、舞踊をさせたところ天下が治ったのが、能の始まりと言われています。

観阿弥、世阿弥も河勝の子孫のようです。

当時の伎楽面が残されていますが、彼らの面影が残されているのでしょう。

 

 

これほどまでに、日本の歴史、文化、天皇家と関わりが深かった秦氏ですが、平安京建設以降、表舞台から姿を消します。

歴史に名を残すのを避けたようなのです。

彼らがこれほどまでに日本に同化したのは、秦氏が移住してきたときに天皇が土地を彼らに与えたからではと、著者は推測しています。

流浪の民として定住することのなかった彼らが、東の果てに安住できる地を見つけた。

薬売りなど全国を転々として商売をする商人として全国に散っていったようです。

もちろん名家、隠れた実力のある家系、としても残っていますが。

 

これを調査していて、「それではスサノオ、天津神、と秦氏との関係は??」という疑問が出てきました。

これについては調査は時間がかかりそうですので、気長にお付き合いください。

 

長文読んでいただきありがとうございました!