このシリーズを書き始めたのが9月。。。

そして完了したのが11月末。。。

私は遅筆なのでしょうか?

それとも度々脇道に逸れるのがいけないのか?

火星ふたご座なので致し方ない面があるのです(笑)。

 

まとめていたら長くなってしまったので、3回に分けます。

分けても長いのですが。。。

 

前回のシリーズはこちら。

 

 

 

 

 

今回はこちらの書を元に、藤原氏がいかに日本の歴史を都合よく書き換えてきたか、をまとめたいと思います。

密度が濃い書籍なので、まとめるのに一苦労。

正直まとめきれてません(笑)。

ぜひ原書に当たってください。

 

 

前提知識として、「日本書紀」は1つの事件を2つ、3つに分解して、時代も分からなくして記載する、という細工がされています。

 

まず結論として、自分たちが起こしたクーデターと手柄の横取りを隠すために、「日本書紀」で徹底的に蘇我氏を悪者にしたのでは?というのが、この書の根幹です。

 

 

冒頭からとばす関氏(笑)

 

「日本の歴史とは、極論すれば「藤原の歴史」なのである。

 われわれのご先祖様たちは長い間「藤原」に隷属し、「藤原」に支配され続けてきた。

 それにもかかわらず、日本人は、「藤原」について、あまりにも無知で、無頓着ではなかったか。」

 

「じつを言うと、歴史上「藤原」がもてはやされた時代は、あまり長くない。

 明治からこの方、近代、現代に限られた話であって、それ以前、彼らが英雄視されていたかというと、首をかしげざるを得ない。」

 

実際、明治維新(日本のクーデター)には、少なくても三条家が関わっています。

彼らに都合の良い歴史観が、明治以降始まった学校教育で、日本人に叩き込まれてきたのです。
 

明治維新を企んだ公家と武士は、活動の初期の頃から、明治維新を大化の改新になぞらえています。

後の山縣有朋が藩主の毛利に宛てた手紙に、

「中大兄皇子は中臣鎌足と謀議し、入鹿誅殺を決行されました。」とはっきり書いてある。

江戸時代までの大化の改新(乙巳の変から始まる)の認識は、「蘇我入鹿は中大兄皇子と中臣鎌足に殺された。」なのです。

 


藤原氏以前のヤマトは各地方の豪族による合議制でした。各首長の総意を元にして決められていた。

 

その中心地だったのが纏向。

縄文は合議制だったので、ここまでは日本社会も部族間の争い等はありましたが、縄文的だったということでしょう。

 

 

 

藤原氏史観の日本書紀には、「横暴を極めた蘇我氏」とありますが、蘇我氏ですらこの合議制を守っていた。

これを破って太政官を一族で独占して、独裁を敷いたのが藤原氏だった。

縄文の歴史を考えると、おそらく藤原が敷いた体制が、日本史上初の独裁体制ではないでしょうか。

 

 

そして初期のヤマト朝廷は、豪族から税を取り立てるシステムがなかったようなのです。

その代わりにあったのが、「部民制」。

ヤマトの大王は、豪族の「私有地」「私有民」を認める代わりに、職業集団を率いて王家に奉仕する制度だった。

部民制の詳細は省略しますが、世襲制になるので、社会の硬直化を必然的に招く負の側面があります。

その豪族たちの力を奪って中央集権を強化したのが、大化の改新。

そしてその大化の改新が、律令制度の確立につながってゆく。

 

 

大化の改新ですが、初期はおおみたから(百姓)には喜ばしいことだったようです。

当初の理念は「農地は百姓にすべてに公平に分配しよう」ということだったようです。

それまでは、氏族間の争いが絶えなかったし、豪族による私有民への収奪と搾取が行われていたが、改革によりそれができなくなる。

しかし実態は、租庸調や労役、兵役義務、出挙の支払いを負わされて百姓も困窮してゆくのですが。。。

そしてかなり端折りますが、農民よりも大貴族が有利な法律、聖武天皇の時代に整備された「墾田永年私財法」が制定。

欠陥のある法だったので、法の不備を悪用し、藤原による「荘園」が確立される。

日本のある一族が日本中の土地を囲い込む結果となる。

これが平安時代に行われた、藤原北家による日本の領土と富の独占です。

 

 

実は大化の改新の土地の改革を最初に着手し、途中まで実行したのは、蘇我氏と物部氏と尾張氏だったのです。

そしてほぼほぼ完成させたのが、天武天皇。

「国のためになるならば」と、豪族たちは所有する広大な土地を手放し、律令制度の完成を急いだ。

各豪族が手放したところを、藤原氏がかすめ取り、「律令制度は藤原が作った」と手柄を横取りした。

 

 

権力者によって改ざんされた日本の古代の歴史書「日本書紀」では、蘇我氏と物部氏は宗教で対立したということになっている。

物部氏は、饒速日を始祖にもつ古代最大の豪族で、中臣氏よりも古くから神道を仕切っていた一族です。

物部神道は石上神宮に色濃く残されている。

 

 

 

饒速日は東北に天孫降臨し南下して関東を治め、さらに西遷して行き、神武天皇よりも古い最初のヤマトの統一王になった。

西遷には諸説あると思いますが、自分はこれが一番しっくりきます。

 

 

こちらは瓊瓊杵尊ですが、高天原東北説。
神社チャンネルさんから。

 

 

物部氏は海人族も従えていた。

物部氏といえば、物部氏編纂の歴史書「先代旧事本紀」があるが、その中では蘇我氏のことを責めていない。
それどころか「先代旧事本紀」には、物部守屋が蘇我馬子に滅ぼされた記録がないのです。。。

蘇我氏と仏教で争った物部守屋はいわば分家で、物部宗家には影響がなかったようです。

 

 

いかに正史と言われているものが、あやふやなものなのかを実感しますね。

それと、蘇我氏の地は飛鳥なのですが、古代史の中心地であったにも関わらず、実際訪れると暗い感じがします。
蘇我氏を呪うものが、封印した土地なのかもしれません。
 

『破』に続く。