「仕事に差し障るから」と

新しい本を手に取ることを

自らに禁じているほど

M.W.クレイヴンの

『ワシントン・ポー』

シリーズを気に入っている

わが夫(英国人)が

「ですが僕、あの人の文体が

時々すごく気になるんです。

君、わかってくれますか?」

 

 

 

 

「あのなあ、私は普段

小説は日本語で読む人間だぞ。

英語で読んだ小説なんて

名作児童文学か

クリスティ物くらいだ。

今回クレイヴンを

英語で読んだのが

そもそも普通じゃないんだよ。

そんな人間に

文体がどうこうなんて

わかるはずないだろう」

 

 

 

 

 

 

まあでも一応夫の

言い分を聞いてみましたら

「クレイヴン氏ってたぶん

我々よりちょっと

年上じゃないですか」

 

「そうなのか?」

 

「そうなんです。で、

シリーズ主人公の

ワシントン・ポーって

僕たちよりちょっと

若いじゃないですか」

 

「そうだっけ?」

 

「そうですよ」

 

「我々と同い年くらいかと

思っていたんだけど」

 

「若いですよ。僕はちゃんと

気を付けて計算しました、

ワシントン・ポーは

僕たちより年下です」

 

「それで何が問題なの?」

 

「そこらへんに原因が

あるのかもしれないんですが、

文中に出てくる言い回しが

なんていうかちょっと

僕からすると

『若者言葉すぎる』んです」

 

「ほほう」

 

「わかってくれましたか?」

 

「だから言ったろう、

英文を読んでそれが

『若者言葉』か

そうではないかなんて

私の英語力じゃ判断できんよ」

 

「とにかくちょっと

僕らの年代なら使わない

言い回しがあちこちに

出てくるんです。で、

それを読むたびに僕はこう

こそばゆい気持ちになるんです。

若者言葉を頑張って使う

年長者に感じる

むず痒さというか・・・」

 

「その感覚はわからないでもない、

けどそれこそあの小説は

主人公の視点で物語が

進んでいくことが多いんだから

言葉遣いが多少若者風になるのは

それはもう仕方ないんと違うか」

 

それが出来たからこそ

人気作品になれたというか。

 

「それはわかるんです。

でもモゾモゾするんです!」

 

「だからその気持ちは

私も理解できるけどな」

 

「日本語で小説を読んでいて

そういう気持ちに

なる時ってないですか?」

 

「それはあるよ。あ、でも

小説ならあんまり気にしないかな、

エッセイなんかだと

『そんな若ぶらんでも』と

思ってしまうことはある」

 

たとえばここ数年で

日本の若者たちは

『クソ』を副詞的に

使うようになりましたよね?

 

「クソ面白い」とか。

 

私はあれ、個人的には

あまりいい響きではないし

自分は使わないように

しているんですが

若年層の人たちが使う分には

「これもひとつの世代ごとの

感性の違いだな」と

納得できるんです。

 

私も高校時代とか

今は亡き祖母に

「あなたはどうしてそんなに

荒っぽい言葉を使うのかしらね」

とか言われていましたし。

 

でも私と同年代の人間が

「Norizoさん、これ

クソうまいですよ」とか

言っているのを聞くと

「貴様恥ずかしくないのか」

とか思ってしまう、ましてや

私より年長者の方が

そういう物言いをしていると

「・・・うわあ」みたいな

気持ちになってしまう、でも

こと文芸作品に関しては

それくらいの開き直りが

大衆人気獲得のために

必要とされて

いるのかもしれませんし。

 

文体選択って難しいですよね。

 

 

なおそう言われてみると

翻訳者東野氏は

夫の言う「むず痒い感じの

言葉遣い」さえも

日本語に置き換えているように

思えてきたのですが

これって私の贔屓の引き倒し?

 

 

 

 

あーでも東野さん

優秀そうだから

早いところ最新話

『The Botanist』を

読み始めないと日本語版が

先に出てしまう気がする

 

 

 

 

そうなったら私はきっと

日本語版を買ってしまう、

というか英語版を読んでも

私は東野文体を楽しみたいので

きっと日本語版を

買っちゃうに

違いないのであった

 

Norizoさんってもしや

ワシントン・ポーや

クレイヴンじゃなく

東野さんのファン

なんじゃないんですか?

の1クリックを


ヨーロッパランキング