どうも、すこっちです。(^。^)
すこっちの「みなさん読んだことないだろうシリーズ」
今回は松尾芭蕉の「おくのほそ道」を読んでみましたよ。といっても、図書館から借りてきたマンガですけどね。
作者は釣りキチ三平の矢口高雄先生。
誰でも「奥の細道」の作者が松尾芭蕉であり、その中で紹介されている有名な俳句、例えば「閑かさや 岩にしみいる 蝉の声」とか「五月雨を集めて早し最上川」は知っているという人も多いでしょう。
でも、「奥の細道」という作品自体を読んだことのあるって人は、どのくらいいるのでしょう?
だろうと思って読んでみました。
まあ、これって一緒に旅をした弟子の曽良さんが「曽良日記」なるものを書いてまして、旅の具体的な日時や場所なんかはこちらに詳しく書かれている。芭蕉さんはどちらかというと、西行法師なんかの歌枕や旧所、名跡を巡って見た景色や感じた事を、詠んだ俳句を交えて書かれた俳諧紀行という感じなんだわね。
では、すこっちがこの奥の細道(マンガ)を読んで知り得たトリビアをみなさんにお裾分けいたします。
その1「芭蕉さんは予定外の場所に立ち寄った時にいい俳句を詠んでいたりする」
曽良日記によれば平泉の滞在時間はざっと3時間ほどになる。どうやらどなたかに勧められて平泉まで足を伸ばしたと推察される。平泉の「義経堂」を芭蕉が訪れて「夏草や兵どもが夢の跡」が詠まれたようです。
また、山形の山寺(立石寺)も当初の計画にはなかったのですが、尾花沢滞在時に鈴木清風に勧められて足を運んで、有名な「閑かさや〜」が生まれたとされている。
偶然の発見や発明を「セレンディピティ」と言いますが、芭蕉の傑作もまさにそれだったんですかね。
その2「芭蕉が幕府の隠密🥷説!?の出所は仙台藩?」
これよく聞く噂話だったりするのですが、実は芭蕉が尿前(しとまえ)という仙台藩が管理する関所で不審を買い足止めを喰らったそうでなんです。
なんでかっていうと、仙台藩(伊達家)はこの頃幕府から日光東照宮の改修工事を命ぜられていたんだけど、仙台藩は凶作を理由に幕府に辞退を申し出てたんだって。
だからと言って幕府が「はい、そうですかわかりました、しょうがないですね」と首を縦に振るほど甘くはなく、それが事実かどうかを隠密を使って密かに調べるケースをあったそうです。
なので、仙台藩が神経ピリピリしてた頃に芭蕉さんたちが関所を通ったんで、幕府の隠密だと疑われ、後に隠密説になったということのようです。
その3「芭蕉と曽良の歳の差はたった5歳」
旅の道中も常に師匠を思いやる曽良さん。
よっぽど芭蕉さんをリスペクトしている若者かと思いきや、元禄二年(1689)3月27日に旅立った時、芭蕉46歳で曽良が41歳。
あら、そんなに歳が離れてないのね。っていうか5歳差だったら同年代じゃん。
これだから、人のイメージというものは曖昧なのよね。
その4「推敲を重ねてこその名作」
超有名な「五月雨を集めて早し最上川」ですが、実は最初に芭蕉が詠んだのは「五月雨を集めて涼し」だった。それを最上川の舟下りを経て「涼し」を「早し」に変更したのだそうです。
やっぱ文章って、「推敲」が「最高」を生むってことなのかしら?
その5「閑かさやの蝉の種類はなに?」
山寺で芭蕉が聞いた蝉の鳴き声は「何蝉だったのか?」こんな論争があったそうなんです。でね、アブラゼミ説が有力だったところにニイニイゼミ説を主張する研究家が現れて、自然観察の結果、芭蕉が訪れた頃の山寺周辺は、まだアブラゼミの発生期には早いことが分かって、ニイニイゼミが定説なんだそうですってよ。
その6「山形の方が相性がよかった芭蕉さん」
本当のところは芭蕉さん本人に聞いてみないと分かりませんが、どうやら宮城、岩手は足早に後にして、今の山形県に長逗留している。これは当時、山形は日本海側の北前船を使って名産の紅花で大儲けして潤っていたんです。俳句という高尚な趣味はある意味お金持ちたちの道楽みたいなもので、その人たちは江戸のスターである芭蕉さんを高待遇でおもてなしをして、俳句の会を開いたりしたんで、居心地が良かったのかもしれません。
以上、奥の細道トリビアでしたぁ。