どうも、すこっちです。(^o^)
1月24日のブログで北の国からのオリジナル版を1話から24話まで全部見終わったという記事を書きました。↓
アタシの中では、国民的なTVドラマとして名高い「北の国から」の一番コアとなる純と蛍が幼少期の頃を全話見ておけば、とりあえず世間の「北の国からフリーク」の話題にはついていけるだろう。(まあ、どのくらいフリークが存在するのか分かりませんけど)
北の国からフリークのヒエラルキーで言えばピラミッドの最下層なんだろうけど、その後に控えし、スペシャル版は見なくても別にいいんじゃないかと思っていた。
作品を観るのに時間を取られるというのもネックだったし、よくある傾向として、面白かった作品のスピンオフや続編、番外編というのは、必ずしも当たらないという先入観を持っていた、というのも続編に二の足を踏んでいた理由でもあった。
がしかし、ある時ふと酔った勢いで、「じゃあ、北の国からの続編でも見っかな」なんて安易な気持ちで見始めたんですが、、、これが福山ガリレオ的に言えば、「実に面白い!」だったのです。
ちょうど3月14日に最後の「2002遺言」を見終わったんですけど、いやぁこのドラマ、深いっすよ。
以前のブログにも書いたんですけど、オリジナルの24話のストーリーもけっこうエグい内容だったんですけど、これが純や蛍が成長していく過程でこの二人が巻き込まれる出来事がさらにエスカレートして、エグい修羅の道なんですわなぁ。
倉本聰さんって、どういう人なのかはよく分かりませんが、よくもまあこんだけ「ええっ」って思わせる展開を富良野で育った純朴な青年と女性にぶち込んでくるもんだなぁと、アタシの中ではある意味、「渡る世間は鬼ばかり」以上の艱難辛苦を与えていたような気がする。
(あ、渡る世間のほうが後輩なのか)
でね、そういうストーリーの中でね、見方が変わったことがある。
オリジナルストーリーのときはね、田中邦衛さんが演じる古板五郎がさ、いつもボソボソって口ごもったような喋り方で「何を言っているかわからない」し、見栄えも冴えないし、考え方が単細胞で、感情的で、酒グセが悪くて、身近にこんな人がいたら絶対に距離を起きたいな、と幼少期の純と同じような思いだったんです。
ところが、続編を次から次へと観ていくうちにね、彼の一途で芯がしっかりしていて、純朴で
物欲にこだわらず、恥ずかしげもなく家族や関わる周りの人に別け隔てなく愛情を注ぐ姿勢にね、アタシのハートが撃ち抜かれていったんですわ。
そして、いい大人に生った純や蛍も徐々にそんな彼の偉大さに気づいていくっていうね。
なんだろねぇ、今の人たちにはこの気持ち、分かるんだろうか?
物に満たされ、ことに満たされ、パソコンにスマホにインターネットにSNSと手を伸ばせばある程度のことはなんでも自由にできてしまう時代。うちの息子も何かというと、合理主義一辺倒な方向性の話で自分の主義・主張を優位な方向に持っていこうとしかしないけど、、、。
世の中ねぇ簡単に足し算できないことも、割り切れないこともいっぱいあるんだよって。時には自分の正当性を主張したいのに、それを全面に押し出せないときもあれば、進んで泥水を被るような場面もあるんだよって。そりゃね、Wi-Fiの電波も5Gの電波も目には見えないけど、「義理」と「人情」という大事な目には見えないものもあるんだよって。
うちの息子に「北の国から」観たほうがいいぞ!といったところで、まあ観ないでしょうな。そもそもアタシが五十路を過ぎてから観てるんだから。でも、年齢がいってから観たほうがこのドラマはその奥深さに気付くのかもね。
ドラマの中で幾度となく登場する純と蛍の過酷な状況に追い込まれたときの気持ちが、いろいろな経験をしてきた五十路心には、共鳴するんですわなぁ。
ご覧になっていないという残念な方には、ぜひともFOD(月千円ぐらいなので)で観ていただきたいです。決して、観ておいて損はないとアタシは断言する。
それにしても95と2002に登場する純の恋人シュウ役の宮沢りえさんは可愛くて良いキャラだったなぁ。あんな人と暮らせたらさぞ毎日がHAPPYだろうに、、、。(^^♪
最近、富良野に行きたい熱が高まっている、すこっちでした。(^o^)