どうも、すこっちです。(^o^)
昨日のアタシの万歩計の歩数が17,000歩を超えた。
そりゃあそうである。自宅から多賀城駅まで歩いて電車に乗り、あおば通駅からまた歩いて仙台市博物館に向かう。その後三の丸~大手門~中ノ門~沢ノ門~清水門~博物館~追廻~大橋~博物館で終わってから、また青葉通駅まで徒歩。
授業の途中、ご高齢の学生1名が気分を悪くされてリタイアするぐらいですから、過酷と言えば過酷な行程だったのかもなぁ。(-_-;)
さて、昨日写真を絡めてあらかたのおすそ分けは済ませたつもりでしたが、今日は昨日伝えきれなかった先生がご好意でボソボソっと受講者のためにだけ話してくれた、仙台城にまつわる今までの固定観念や先入観を綺麗さっぱり改めるためのトリビアを紹介したいと思います。
これ、かなりレアです。っていうか、ガイド10年目のアタシでさえ、目からウロコの発言が次から次へと飛び出しまして、まあ一部はちょっと不適切なところもあるんで書きませんが、覚えておいて損はないかと、、、。
その1「仙台城築城時に石工が踊ったのがルーツとされるすずめ踊りは、、、。」
仙台・青葉まつりが昨日終わったばかりで、旧暦ですが24日は政宗様の命日。
なのに、こういうことを書いていいものか?迷うところではあるのですが、事実は真摯に受け止めるのが「武士道」ですので、あしからず。
今や仙台のお祭り行事を盛り上げるには欠かせない存在となった「雀踊り」。
ネットで検索すると、こんな風に紹介されています。
「仙台すずめ踊りの考案者は、特定の人物ではなく、泉州・堺(現在の大阪府堺市)出身の石工たちであると考えられています。」
慶長8年(1603年)に仙台城の移徒祝賀の席で、石工たちが即興で披露した踊りが起源とされています。踊る姿が餌をついばむ雀に似ていたこと、また伊達家の家紋が「竹に雀」であることから、「すずめ踊り」と呼ばれるようになりました。
ですが、仙台城築城の際に泉州・堺から連れてきた石工たちが即興で踊りを披露したということが書かれた文献は一切見つかっていないのです。
実際のところは本当に祖先が泉州・堺の石工で仙台に移り住んだ黒田さん(石材店)が仙台第一中学校で部活動として「はね子踊り」という踊りを考案し、校長先生の協力などもあり、昭和30年代頃から盛り上がっていきました。(実際に泉州地方には似たような踊りが伝承されているのだそうです)
そして、伊達家の家紋が「竹に雀」であることと踊っている姿をすずめに見立てて「仙台すずめ踊り」と名付けて世に送り出し、さらに昭和62年(1987年)には、仙台・青葉まつり協賛会が現代風にアレンジした「新・仙台すずめ踊り」を発表して発展し、今に至ったというのが本当のところのようです。
ただし、二の丸の火災や若林城の書物が保管された蔵の火災で焼失した書類の中に、すずめ踊りの築城時の記載がひょっとしてあったんだとしたら、、、。ないとも言い切れない。
その2「見事な北面の石垣、でもあれってそもそも政宗様の頃のものじゃあない!」
これ仙台城あるあるなんです。
仙台城を訪れて、石垣を見て騎馬像の前で写真を撮ってガイドも頼まずに帰られる方のほとんどがこんな認識をして帰ります。「伊達政宗の築いた石垣は凄いなぁ~、さすがは天下の伊達男伊達政宗だわ。」
♪違う、違う、そうじゃ そうじゃな~い♪
この石垣はそもそも政宗様の時代に積まれた石垣ではな~い
これは、仙台藩四代藩主伊達綱村公のときに築かれたもの(正確に言うと、昨日紹介した1996年から6年掛かりで修復工事をして積み直しをしたもの)
言われてみれば、そういう「政宗認識」のままあちらこちらで語り継がれているのかも、、、。
その3「大手門の再建はそう簡単なものじゃあないってこと」
まずは一枚の写真を見て頂きたい
よく目にする在りし日の仙台城大手門の写真
仙台市は、仙台城の大手門を伊達政宗公の没後400年にあたる2036年を目標に復元する計画を立てているそうだが、実はこれがそう簡単なものじゃあないってことが意外と知られていない。
そもそもね、お城はなんのためのもの?そう、戦のときに籠城するためのもの。ひとたび戦となれば領民も避難のために城に立て籠もる。敵が城に攻めてきたらどうしますか?敵の軍勢が真っ直ぐに攻め込めないように小口枡形といいまして、城には簡単に入れないような仕掛けを施しています。門に入るための坂の傾斜もいきなり急にして、これも敵の侵入を防ぐための工夫です。
でね、何が言いたいのかって言いますと、この大手門を歴史に忠実に再現するというのであれば、今のなだらかで車に人に優しい坂ではなく、恐ろしいくらいの急勾配を再現するためには今の道路に盛り土をして、かなり嵩上げしなければ、単なるまがい物になってしまうということなのです。
現在復元された仙台城脇櫓がありますが、実際にはこの黄色くマークした位置が大手門の前の坂の地面の最高点ということになるのです。上の写真と見比べると、よーく分かるでしょ。
(正確にはおそらく第二師団がもともとの急勾配を利用しやすいようにいくらか削ったのものと思われます)
さらに付け加えると、本物の脇櫓の1階の屋根はちゃんと大手門を邪魔しないように収まっていますよね、ところが復元された脇櫓は大手門とのコラボレーションを無視して作られたものだから、どういう建築ウルトラCでアレンジをするのかは分かりませんが、本物のサイズだと1階の屋根が大手門にぶつかるんだそうです。
(そもそも脇櫓ありきで門を作るという発想に無理がある。理屈的に小ぶりなまがい物しかサイズが収まらない)
他にも車も通れなくして大丈夫なのか?とか、写真を取りたい観光客がどこで写真を撮影するのか?待機する場所はあるのか?車で来た方たちの駐車場は確保できるのか?写真撮影でごった返した観光客の身の安全は確保はできるのか?当時けやき作りだった国宝を杉や檜でお茶を濁すのか?史実を無視した中途半端なものを作ったとしたら、何のための誰のための復元なのか?
だったら、ガイドをするボランティア会に資金援助して、観光の受け入れ体制を強化したほうがよっぽどコスパがいいんでは?と思うのはアタシだけでしょうか?
と、まだまだあるのですが、今回はこのぐらいでお開きということにしますかね。
以上、すこっち