「渡る世間は鬼ばかり」に学ぶ”小憎らしい悪役”の存在の重要性 | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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どうも、すこっちです。(^o^)

 

3月5日のブログに、久々にTverで観始めた「渡る世間は鬼ばかり」はやっぱりいいねぇということを書いたのですが、あれから第7シーズンを見終わり、今は第8シーズンを見続けています。

 

いやあ、思えばさ、社会人になってからは、時間とかが合わなくてところどころ観ていないもんだから、続けて観ていると「ああ、こういう流れだったのね」みたいにツギハギだらけの記憶がどんどん埋まっていって面白い。

 

そしてなにより、当時の観ていた感覚と、今この年齢にして観るのとでは、感性も感受性も物の考え方や見方も変わっていて、新しい発見や気付きも合って、新鮮なのであります。

 

でね、久々のドラマ「渡る世間は鬼ばかり」シリーズを観ていて気付いたことが2つある。

 

1つ目は、なんだかんだ言っても人間社会を形作っているのは「愚痴」なんだなぁということ。

 

このドラマを観ていると、登場人物がことあるごとに兄弟や親や子供や関係者と顔を合わせるたびに、それ相応のセリフを言うのだが、そのほとんど愚痴っぽいセリフというか愚痴なのです。

 

まあ、役者さんはね、お仕事だから台本に書かれてあることをセリフとして発しているだけなんでしょうけど、いかにもそれっぽく言うからホントプロって凄いなあと思います。

 

でさあ、日常生活においてこんなに愚痴を乱発するなんてこと、実社会ではあり得ないと思うんです。ってことは逆に言うと、それだけ現代人が言いたいけど言えない愚痴を我慢してるってことなんですよね。

 

日本の社会は「上意下達」(じょういかたつ)社会と言いまして、上位の者の意志や命令を、下位の者に徹底させることがまかり通っていて、その逆つまり下のものが上の者に物申すなんてことは、もってのほかという慣習が定着している。

 

なので、面と向かっての発言は必然的に控えざるを得ない。だって、そんなことをして自分の評価が下がって、不利益を被るようなことはできれば避けたいと思いますものね、誰だって。

学生時代だって、よほどのことがない限り先生に楯突くなんてこと、ないでしょう!

 

だから、凄いなあと思うのは、脚本を書かれている橋田壽賀子先生が人間の心理というものを分かっていて、人間は不平不満に対して愚痴を言いたくなるもの、でも現実社会でそれを発言することはタブー視されていたり、マイナス評価されるということで、ほとんどの人がやりたくてもやれない。だから、あえてそれをドラマの中で表現している。結果、自分が普段やりたくても出来ないことをやってくれている。その疑似体験にどんどん没入してドラマにハマっていくという構図なのかなぁということに気付きました。

 

2つ目は、小憎らしい悪役の存在は視聴者の反骨心をメラメラと燃え上がらせるということ。

 

渡鬼を観ていて、ホント憎たらしく感じるのがハワイから帰国して居座っている沢田雅美演じる小島久子と中島唱子演じる聖子ちゃん。

 

まあドラマの配役上のこととは言え、この二人の傍若無人な、人を人とも思わない罵詈雑言の限りは本当に赤い血が流れてんの?って思うぐらい、ひどいものでした。

 

でもこれって、一歩引いた目で見てみると、この二人の存在に怒りを感じているということは、イコール橋田壽賀子先生の手のひらの上で転がされているということになるのですわな。

 

アタシもプロレス好きで、以前宮城県スポーツセンターに今は無きWJプロレスを観戦に行ったときに対戦相手の大仁田厚の傍若無人なファイトに熱くなっていた。でもこれって、要は大仁田の「自分がヒールをやることで、お客をヒートアップさせる」という手法にまんまと乗せられていたということになる分けなのです。

 

つまり、橋田壽賀子先生は最初っから、この久子や邦子や聖子ちゃんという小憎らしい悪役を配置することによって、視聴者をヒートアップさせる=ドラマに引き釣りこむという手法を使っていたということになるんでしょうかね。

 

ファミコンをやったことのある方にしか通じないかもしれませんが、そう言えばカプコンのゲームに魔界村というゲームがあるのですが、スタート直後に出現するレッドアリーマはほんと嫌いだったし、毎回手こずった。コナミの悪魔城ドラキュラでは、せむし男のあのぴょんぴょん跳ねてまとわりつくような動きに翻弄されて、何度ゲームオーバーになったことか、、、。(ー_ー;)

 

でもそれでも、黙々とゲームクリアのためにファミコンに没頭していた日々。それは裏を返せば、なんとかして苦手な小ボスを倒そうという、反骨精神に火が付いていた🔥ということ。これは見事にゲーム制作者の術中にハマっていて、それは橋田壽賀子先生の渡鬼のそれと全く同じで「小ボスキャラに手を焼く」=「子ボス級の悪役に怒りを感じる」はゲームだったり、ドラマの世界に引き釣む常套手段だったということになるのであります。

 

だからそこで、ゲームだったらその小ボスキャラをやっつけたときには、超うれしかったり、ドラマで久子や聖子ちゃんが反撃されると、同じような「やったね!感」を感じたりするのは、ますますゲームやドラマにハマっていくということになるんでしょうね。

 

最近じゃあ、韓国ドラマだったり、ネットフリックスの海外ドラマにハマって一気観する人たちが大勢いますが、これってアタシの渡鬼連続視聴と同じなんですよね。

 

人間の反骨精神を刺激するってかぁ。

そんなことに五十路で気づいた。(-_-)