どうも、すこっちです。(^^)
昨日に引き続き、例の写真集のお話です。
まあ、昨日紹介した塩釜神社の表参道の202段の石段付近に群衆雪崩が起きてもおかしくない状況下で帆手祭を見物しているという写真もレアだったのですが、今日の写真は一見するとどうってことのない岸壁に停泊している一隻の船の写真。
でも、この船って説明書きによると実はとっても凄いレジェンドな船なんです。
船の名前は”信濃丸”。まずは、写真を御覧いただきましょうかね。
この写真は昭和6(1931)年に撮影されたものなんだそうですが、左側が当時完成したばかりの東埠頭に入港した信濃丸。右側が中埠頭だから反対側の岸壁から撮影した写真です。
でね、この”信濃丸”のどのへんがレジェンドなのかと言いますと、信濃丸は日本郵船がイギリスのグラスゴー造船所に発注して建造された6,388トンの貨客船で明治33(1900)年の4月に進水してデビューします。
当初は欧州や北米航路などの花形豪華客船でして、まあ船としてはエリート中のエリートだったんだわね。小説家の永井荷風はこの船でアメリカに赴任しその後、「あめりか物語」を執筆しているそうです。そして、ロシアとの開戦ムードが漂い出した日露戦争頃には、海軍が仮装巡洋艦として改装され、明治38(1905)年5月7日には、なんとあのバルチック艦隊が対馬海峡を通過したところをこの信濃丸が発見し、当時新装備の無線電信で「敵艦見ゆ」の第一報を発信して、かの有名な「日本海海戦」の勝利に貢献したという武勇伝があるんだそうな。
アタシも大河ドラマ「坂の上の雲」で見た見たそのシーン。ああそうなのね、あのバルチック艦隊発見をもっくんに知らせたのはこの船だったのね。へぇ、へぇ、へぇ。
日露戦争が終わっても、この船に休息は無いのです。大正2(1913)年には中国の袁世凱独裁に反対する孫文がこの船で日本に亡命し、密かに神戸に上陸している。
そして、昭和6年には塩釜港に入港し(函館の物産を船に積み、複数の港に寄港して紹介するキャンペーンみたいなものをやっていたそうです)この写真を撮影。
第二次世界大戦中にはまたまた軍に徴用され、ゲゲゲの鬼太郎の作者で有名なあの水木しげる先生が一兵卒としてパラオから最前線のラバウルに送られた時にこの船に乗っているんだそうで、その記憶では「港には古い船が待っていた。船に乗って舷側をいじると、1センチぐらいの鉄板がせんべいのようにボロリと取れた。びっくりして船員に聞いてみると「兵隊さん、この船は浮かんでいるのが奇跡なんだから」と言われたんだそうな。
働き者のお船というべきか、こき使われているというべきか、、、。(-_-;)
その後信濃丸はアメリカ軍の魚雷に撃沈されることもなく、太平洋戦争を生き延び、戦後はシベリア抑留者の復員輸送に従事。そして、昭和26(1951)年に半世紀にもおよんだ船としての生涯を終え、廃船となったなったのだそうです。
凄いなぁ、信濃丸って。ハンパないよね、そのレジェンド話が。
バルチック艦隊の発見を通報して日本を勝利に導き、孫文の密航に加担し、南の海であの水木しげる先生を乗せ、多くの船が海の藻屑となって消えた太平洋戦争を生き延び、最後はシベリアからの復員兵輸送船としてもう一働きするなんて、立派過ぎます。あっぱれをいくらあげてもたりないぐらいです。頭が下がります。
こんなレジェンド船がアタシの住む多賀城市の隣の塩釜の港にはるか昔に寄港していたなんて、じぇんじぇん知らんかった。それが、図書館でたまたま見つけた1冊の本から知り得るなんて、不思議なものですなぁ。そしてそのことをこのブログを通して、みなさんにお伝え出来るというのも、これまた不思議な縁、神様のお導きとしか言いようがないかも。
いやあ読書って、本当にいいものですね。それでは、さよなら、さよなら、さよなら。(^^)