2024年のNHK大河ドラマ「光の君へ」をご覧になりましたか? | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
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どうも、すこっちです。(^^)

 

すでに1週間が経過してしまいましたが、みなさんの中で今年の大河ドラマ「光る君へ」を果たしてどれくらいの人がご覧になったのでしょうか?

 

単刀直入に結果から申し上げますと、なんと初回としては1989年の「春日局」の14・3%を下回り過去最低の視聴率である12.7%を記録したとのこと。

 

う~ん、「最愛」で人気を博した視聴率女王のヒットメーカー吉高由里子を起用しても、この数字。確かに裏番組で人気の「芸能人格付~」を放映していたとか、一般ピープルの正月ボケでTVを観るモードに切り替わっていなかったなど理由は様々でしょうけど、、、。

 

ちなみにアタシは「最愛」以来の吉高フリークになってしまったカミさんのゴリ押しもあり、かなり前から観ることになっていた。予習も必要だろうと思い、セブンで売っていたこんな本も衝動買いしてしまいましたとさ。

 

ところがね、この本かなり面白い!騙されたと思って読んでみてもハズレではない気がする。

 

そうして第1回目の1月7日の回を拝見したんですが、ドラマとしてはなかなかの出来栄え。

つーかこの本で予習していたのが大きいかな。登場人物の名前も相関図も把握していたんで、ドラマの背景が分かって観ていたので、内容がスーッと頭に入ってきましたね。

 

まるで、試験の前日に勉強したところが試験に出題された、みたいな感じ。(^o^)

 

逆の見方をすると、なんの予備知識もないままご覧になった人は、どこかとっつきにくい平安時代ですから、スッキリしたのか?モヤッとしっ放しだったのか?微妙なところです。

 

そうなんです。視聴率が低調に終わった理由、それは1にも2にも時代が平安時代という武士が出現する前の時代で馴染みが薄くって、バトル中心の戦国時代に慣れ親しんでしまった視聴者が

「紫式部」、「源氏物語」と聞いてもピンと来ず、興味をそそられなかったのが原因であるとアタシは思ってしまいます。

 

それまで大河ドラマの低視聴率の代名詞と言われていた「平清盛」。あれは確か映像が汚いとかいう理由もあったけど、これも平安時代後期で源平合戦の始まる前から描かれていたので、馴染みが薄いと言えば薄い。しかも、源氏と平家で言えば悪役側の平清盛ですから、勧善懲悪好きの日本国民からしたら、ルーク・スカイウォーカーやハン・ソロよりも、ダースベーダーを応援するようなものだから、確かに逆風と言えば逆風。

 

大河ドラマとしては辛い船出となってしまいましたが、アタシの中では第1回目を観た限りでは、少なくとも「どーする家康」よりは楽しませてくれそうな空気感は感じられた気がします。

あとは、ストーリ‐が進んでみませんとなんとも言えないかな。

 

じゃあここで突然ですが、紫式部の名誉挽回のために紫式部フォローネタを!

 

①源氏物語はだいたい寛弘5(1008)年から寛弘7(1010)年頃に成立したと言われています。今から1,000年以上も前に書かれた日本の文学作品がいまだに読み続けられているというだけでも凄いことなのですが、これを400字詰め原稿用紙に換算すると約2,400枚でおよそ100万字。こんなにハンパない超大作をたった1人の女性が書き上げたというのが凄いね。

②「紫式部」は本名ではないのです。朝廷に仕えていた女官を「女房」と読んでいたのですが、宮仕えをする女官に付けられた呼称が「女房名」と言いまして、「紫式部」の場合、お父さんが藤原為時で式部省という役所に勤めていたので”藤原姓”+”式部”でもともとは「藤式部」と呼ばれていたんですけど、のちに「源氏物語」が大ブレイクしたので、登場人物の「紫上」(若紫)にちなんで紫式部と呼ばれるようになったという説が有力なんだとか。(大河ドラマでは”まひろ”という名前が付けられています)

 

ちなみに、同じ時代の「枕草子」の作者である「清少納言」は名字が”清原”なので、”清”。と”少納言”は官職の一つなのですが、身内にその官位だった人は見当たらないので、どうして”少納言”なのかは諸説ありますが分かっていません。

③紫式部は20歳も年上の藤原宣孝人と結婚をします。結婚といいましても、すでにこの方には正妻の他に複数の愛妾がおり、子供が5人もいました。(平安時代ではスタンダード)
彼女は彼の猛烈な求婚に躊躇しましたが、お父さんの転勤先での田舎暮らしと婚期が遅れてしまったことも相まって、結婚を承諾します。(昔は正妻は同居するけど、妾は通い婚でした)

 

④翌年には長女”賢子”が誕生しますが、結婚から3年が過ぎた長保3(1001)年に夫の宣孝が流行り病で亡くなってしまいます。

⑤◯番目の妻であり、女好きの夫ではありましたが、愛娘も授かりいざこれからというときの夫の突然の死。紫式部の悲しみはいかばかりだったことでしょう。

そんな悲しみくれていた彼女が詠んだ新古今和歌集の和歌がこちらです。

「みし人の 煙になりし夕べより なぞむつまじき しほがま(塩竈)の浦」

現代語訳はこちらです。

親しかったあの人が煙となって消えてしまった夕方以降、「睦まじ」という音に通う「陸奥(むつ)」の国の「塩釜の浦」でたなびく、塩焼きの煙までもが慕わしく感じられるようになりました。

わかりやすくいいますと、陸奥国の塩竈で海藻から塩を採ることは京の都でもよく知られていることで、”仲睦まじい”の”睦”と塩竈のある”陸奥の国”を掛けて、さらに荼毘(だび)に付された
あの人の煙と塩焼きの煙をさらにWで掛けているという高等なテクニックを駆使して、自分の哀しみを表現しているという分けなのです。

 

しかも、アタシの住む宮城県の塩釜市が歌枕として使われている。なんて素敵なことなんでしょう。あっぱれをあげてください。

 

まあ、みなさん。チャンチャンバラバラの戦国時代に比べれば、確かに興味は薄いかもしれない。でも、藤原道長が栄華を極めるまでのサクセスストーリーを知りたいとは思いませんか?

武力で天下を治めることが叶わなかった時代に、彼は如何にして親族との抗争を制し、寵児となったのでしょうか?

 

知らないことを掘り下げて知ることで、新たな脳の神経回路が覚醒するってこともある。

今からでも遅くはありません。日曜夜8時にテレビの前でお待ちしております。m(_ _)m