どうも、すこっちです。(^^)
さて、昨日に引き続きアタシの放送大学の面接授業。
「仙台城下町と商人の歴史」の2日目です。
いやぁー今日もボリュームたっぷりの内容盛りだくさんだったわ。
でも、まあ講義の内容が歴史フリークにはたまらないコアな話が結構聴くことが出来ましたので、満足のいく至福の時間でもありました。
では、昨日に引き続きすこっちのおすそ分けタイムと行きますかね。
昨日の授業では、仙台城下の商人に関するお話でしたが、今日は”物流”つまり、物の流通だったり、人の流通だったり、お金の流通という感じ。
その中でアタシが「これは面白い話だなぁ」と思った仙台で勃発したバトルの話が2つありまして、今日はその1つ目を紹介したいと思います。
政宗様が城を岩出山から寒村だった未開の地千代に城を移しまして、名を”仙台”と改めて、新たな街作りをスタートします。なんにもない荒野みたいなところに城下町を築くわけですから、全くのゼロから始めるよりは、勝手知ったる商人やら職人やら神職やらを自分たちと一緒に移動させた方が手っ取り早いし、コスパもいい。
ってなわけで、民族大移動を敢行し、突如として強大な”仙台”という城下町が出現します。
米沢時代から政宗様に付き従って来た商人や職人たちはちゃーんと優遇してあげた政宗様。
仙台城下には「町方二十四町」という序列を設けて、「伊達家御供の町」=「御譜代町」として多くの特権を与えました。(一町株)
その中で町序列の3番めの「南町」には青物(野菜のことね)の専売権(この町のお店でしか買えない権利)を与えました。しかし、町も時代が変わるごとに姿を変え、延宝年間には南町はもっと儲かる両替などの金融街へと姿を変えてしまいます。
じゃあ、庶民はどこで青物(野菜)を買ったらいいのか?
心配ご無用!野菜は人々にとって、生きていくためにはなくてはならない生活必需品ですから、南町に変わる、青物市場が城下の外れに形成されます。
それが、河原町(現在も存在し、地下鉄の駅もある)。庄司太兵衛という人物が青物市を始めて、正保2年頃には当時有名な五軒茶屋なんかも出来て、青物市の機能は南町から河原町へと移って行きました。
そんでもって、江戸時代は河原町=青物の町として確立されていたんですが、明治維新になって仙台藩としての体制がひっくり返ってしまうと、時代の移り変わりとともに流れが変わってきます。
明治13年に河原町の青物市の元締めの針生さんが道路の修繕を名目に出入りの馬・荷車・担(にない)に対して修繕費を徴収すると発表(前年に明治新政府が市場税を導入)。
これに対して、名取郡下の17カ村民が猛反発!なんと、名取郡役所の許可を得て、長町に新たな青物市場を開設してしまいます。
上の下した命令を素直に飲むだけじゃあなく、それに反発し一致団結して、それに対抗して新たな市場を創設するなんて、明治の人はたくましいねぇ。今の羊国民のニッポン人のみなさん!目を覚ましてください!ですよ。
そうこうしているうちに、明治18年に河原町の青物市場が2派に分裂。(出たよーつきものの内部分裂)、のちに、2派はまた1つに統合されたのですが、河原町市場と長町市場が並列して存続する形で何年かが経ちますが、あとから出来た長町の方が次第に取扱量が増加し、河原町を圧倒する勢いでした。
しかし、明治36年(1903)7月末、とうとう”仙台夏の陣”「広瀬橋抗争」が勃発します。
もともと長町市場では維持費を徴収しないということで、河原町市場から分かれたわけなのですが、税金は徴収されるし、維持費も掛かるのは事実。結局、長町市場でも耐えきれずに維持費を徴収することにしたところ、今度はそれに不満を持った名取郡の24ケ村の農民が反発し(また名取かよ)、今度はあろうことか河原町市場へ野菜を出品すると言い出しました。(南朝と北朝の争い、太平記みたくなって来たな)
かくして、広瀬橋を挟んで、河原町市場グループと長町市場グループが野菜を出品する農民の争奪戦へと発展します。(Google Mapで見ると分かるんですが、河原町と長町は広瀬橋を挟んだ向かい側同士なのです。↓
河原町「もうさ、長町なんかよりこっちに持ってきなよ、あっちより高値で買うからさ」
長町「えっ、なになに裏切るの?今までひいきにしてあげてたのに。分かった、分かった、高く買ってあげるから、橋渡らないで!」
なんて攻防が1週間ぐらい続いたんだとか、、、。(-_-;)
そんなこんなもありまして、県や市も仲裁に入りまして、別なところに青物市場を設けるんですが、新設しては閉鎖、新設しては閉鎖を繰り返します。
かくして昭和5年(1930)に河原町市場が中央卸売市場法の認可により正式に仙台青物市場となります。
長きに渡る仙台青物戦争もいよいよ決着か?最後は河原町に軍配が!
ようやく安寧の日々が訪れたと仙台市民がほっと胸をなでおろしたのもつかの間、今度は日本がアメリカ合衆国と無謀な大戦をおっぱじめてしまいます。
昭和20年7月10日の仙台空襲で仙台は焼け野原となり、青物戦争どころではなくなりました。
でも、災い転じて福となす(!?)
日本が戦争に負けて、宮城野原にあった軍の練兵場跡地が市場敷地として最適であるという結論に達し、東北財務局に折衝し15,128坪を買収することとなり、昭和25年3月3日仙台市議会の議決を得て大蔵省から買いとり、ここに中央卸売市場を建設することに決定し、昭和35年度に完成しました。(これで、ホントに終戦)
こんな歴史が仙台にもあったなんて、仙台の青物市場恐るべし!
しかし、それ以上に名取の農民パワー恐るべし!
みなさーん、せり鍋の時期、名取のせりは心して食すべし!
ブタゴリラって強いんだね。(確か彼の家は八百屋だったような)