どうも、すこっちです。(^^ゞ
以前読んだメールマガジンに、こんなことが書かれてあった。
「相手に対して気を遣い、良かれと思ってやる行為をあえてやらないという選択肢もある。」と。
なるほどである、アタシのようなお人好しはどうしても「良かれと思って」ついつい手を貸してしまう。
もちろんこれはね、電車でお年寄りに席を譲るとか、道に迷った人に道を教えるとか、目の前で困っている人を放置プレーをして良いということを言っているのではない。HELPを求めている人には、きちんと手を差し伸べるのはもちろん、人として当然行うべき行為である。
例を挙げるとするならば、例えば自宅の「食器洗い」。
シンクに食事後の食器が放置されていたとする。カミさんが不在なので、良かれと思って食器を洗っておいたとする。しかし、カミさんが帰宅後、洗った食器を見てこう言う。「ちょっと、これ全然油汚れが落ちていないじゃないの、ヌルヌルする。しかも、こんなに水しぶきが飛び散っているし。」
こちらは帰ってきてからやるのは大変だろう。良かれと思ってやったのに、この言い草。まあ、確かに食器洗いの完成度がイマイチだったというのはあるかもしれません。でもね、カミさんを思う気持ちがあるから、食器を洗うという行動に出る分けですよ。帰ってきてからだと大変だろうなぁと。
でも、結局カミさんにはダメ出しをされ、結局二度洗いを始めるカミさん。
(まーこれは洗濯にも掃除にも共通数するかな)
例えば、会社の仕事。
溜まっていた受信FAXをおおよそ「この人宛かな?」と思われる担当者に良かれと思って、配る。
ところが、一女性社員がこう言う「これは、私宛てじゃあ、ありません。○○さん宛てです。きちんと配ってください。」
こちらは溜まっている書類を良かれと思って配ってあげたのに、この言われよう。別に誰宛の書類が分かっているのなら、その人に配り直してくれたらいいじゃん。結局、分けの分からない不機嫌なモヤモヤを抱えたまま、仕事をするハメになる。
例えば、買い物。
立ち寄ったスーパーにお手頃なお買い得商品があったとする。家族は喜ぶだろうと買って帰ると、「えーそれ、まだ在庫があるけど」若しくは「それ、あんまし好きじゃ無い」などなど感謝されると思ったら、大ブーイング。
こちらはね、あなたたちのことを思っているから買っていったのに。別にそんなことを言うんなら、食べなくてもいいよ。と、拗ねる。買う前に事前に確認をすれば良かったーと思うところはあるけど、買ってきた人の気持ちも少しは察してフォローの一つも入れて欲しいもんだよね。
相手を思うからこそ、良かれと思っての行動。しかし、それが必ずしも相手に好意的に受け入れられるとは限らないのが世の中。
そうそう、一番しっくりくる例がありましたね。
あなたが人が1人すれ違えるぐらいの狭い道を歩いていたとします。しばらくすると、向こうから誰かが歩いてきたとします。自分は相手を通してあげようとして、道を空けます。しかし、相手も気を遣い自分の道を空けようとします。見事にお互いがお互いを通せんぼ。その後、お互いがバスケットボールのマンツーマンディフェンスのように道を塞ぎ合ってしまう。
これこそまさに、相手を思い良かれと思った行動がお互いの道を塞いでしまうという、「親切心の逆効果」
不思議なもので、この良かれと思ってやる「親切心の逆効果」を実行したときに限って、物事がよろしくない方向に進んだり、自分が不利益を被ったり、相手や周りの不快を買ってしまうことになりがちである。そして、そういうときに限って、「いやいや、彼は良かれと思ってやったんだから、勘弁してやろうよ」という同情神は天から振ってこない場合が多い。(-_-;)
「同情するなら金をくれ!」という名言がありますなー、テレビドラマ「家なき子」のヤツね。
目の前のみなしごを可哀想だとは思う。手を差し伸べたいとも思う。でも、自分の財布からそれ相応のお金を渡して、援助をしてあげようというところまでの気にはならない。これでは結局のところ、彼女の「金をくれ!」という要求には応えられていないのである。
自分の家の前で行き倒れの人が居たとします。果たして無償の愛でもって、見ず知らずの人を家の中に入れてあげて、食事を与え、風呂に入れてあげ、ベッドを与えるなんて、そんな「レ・ミゼラブル」のミリエル司教みたいなことが実際に出来るんだろうか?ほとんどの人たちは間違いなく、「警察に電話をする!」って選択肢を選ぶでしょうな。何が起こるか分かんないし、賢明な判断と言えるでしょう。
良かれと思ってやる行為は大事な相手への♡マークのあわられ。
でもそれは、ケースバイケースの「諸刃の剣」でもある。
世の中を生きるって、ホント難しいなぁ~。(-_-;)