鶴が折れない今時の人たちって、、、。(-_-;) | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

あなたも「すこっち」に酔いしれてみませんか?

どうも、すこっちです。(^o^)

 

これ、今日アタシの会社で実際に見掛けた光景なんです。

 

青年婦人部の反戦・反核平和の取り組みとして、1人1枚の折り鶴を折って、提出するということらしい。

 

が、しかしである。なんと、今年入社した新入社員A(男性)は折り紙で鶴が折れないと言いだした。

 

この発言に周りのアタシや似たような年齢の人たちはこぞって、驚きの声を上げた。

 

「嘘でしょ!マジで?」

 

「折り方の説明書を見ないと分かんない。ってホントかよ!」

 

「おいおい、幼稚園で習ってこなかったのかい?」

 

「はあ~これからの日本の行く末が、、、。」

 

最近は○○ハラに抵触する可能性があるので、返答のリアクションも注意を払わなければならないんですが、まあ今日のことは別に本人は気にしていなかったので、ここは流してくださいませ。

 

んでね、問題はですよ。これって、ウチのA君に限ったことでは無いってことなんです。

なんでも、折れない人は他にもいるようで、きちんとした折り方マニュアルを配っているそうだ。

 

いやー、このブログをご覧のアラフィフ以上のみなさん!こういう時代が来るなんて、想像してましたか?だって、折り紙ですよ、折り鶴ですよ。アタシが子供の頃はいやっていうくらい折らされていたような気がしますけどねぇ~。

 

何も無い時代だったとは言わないけれど、保育園でも幼稚園でも小学生の頃も、折り紙を折るという情操教育的な風潮はあったような気がする。別にそのことに対してなんの疑問も持たなかった。そして、程度の差こそあれ、当時の子供たちは1枚の紙からいろんなものが創造されていくという、折り紙の魅力に引き込まれていっていたんだと思います。

 

それに、これって親子の素晴らしい絆作りというか伝承だよね。今じゃあ、親の言うことなんてまともに聞かない子供がわが者顔で幅を利かせる世の中になってしまったけれど、昔はさぁ、親が折り鶴の折り方とかを丁寧に教えてくれたもんだよ。そうやって、「へえ~」とか「すごいね~」とかっていうやり取りを通して、親子愛が育まれていった一面もあったように思います。

 

それが、なんなんだろうね。折り鶴も折れないって。別に今時の人が悪いわけでも無いんだろうけど、いつの頃からか、子供に対して「余計なことは何もしなくても良いから、勉強だけはしっかりやりなさい」みたいな空気が世の中をどんどん支配してしまって行った。合理至上主義、点数至上主義、学校も会社もその流れに乗って、無駄なこと、効果の無いと思われることは排除の対象となっていった。

 

でも、それは大きな勘違いなんだよね。

 

「別に鶴が折れなくたって、勉強が出来れば、仕事が出来ればそれでいいじゃん。」

 

たかが折り紙、たかが折り鶴。しかし、それを笑うなかれ。

 

アタシから言わせてもらうとさ、ごはんと味噌汁ぐらい作れなくてどうするの?縫い物やボタン付けぐらい出来なくてどうするの?洗濯機が無くても洗濯ぐらい出来なくてどうするの?ファンヒーターの灯油が入れられなんて、恥ずかしいと思わないの?地震が起きたとき、停電になったとき、目の前のアクシデントに対して、あなたは何をどうするかを考えられんの?

 

子供の頃から、親の手伝い、家の手伝いというものをただただ面倒くさいという見方しかしてこなかった。自分の時間はあくまで自分だけの自由時間。だから大好きなゲームにその時間を割く。そんなことを放任してきて令和という時代を迎えてね、どうなったか?結局、何も出来ないのに口だけは達者なだるまさん(手も足も出せないってことね)が増えただけなんだよって。どうして、そういうところをこの国は問題視しないんだろう?テストの点数が良ければ勝ち組だなんて、そんな世の中はどう考えても間違っているとアタシは思いたい。

 

鶴が折れない、折り紙で何も作れない。でも、そんな今時の人たちだってある意味、被害者だ。

 

折り紙の伝承。これは、些細なことのようで、実はとっても深い意味があるのではないかと、感じた今日この頃です。

 

今からでも遅くは無い。折れない人には最低でも紙飛行機と兜と鶴と紙風船ぐらいは作れるように、教えてあげたいもんです。(-_-;)