ご指導、ご鞭撻の少ない優しい社会のツケはいつか回って来る。 | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

あなたも「すこっち」に酔いしれてみませんか?

どうも、すこっちです。(^o^)

 

「これからも、ご指導・ご鞭撻のほどよろしくお願い致します。」

 

定番の決まり文句のような、このセリフ。アタシも確か、結婚式の披露宴の新郎の挨拶の時に、当たり障りの無い決まり文句として使った記憶がある。あとは、社内の新人歓迎会や異動してきた人の歓迎会なんかですかねえ~この言葉の登場する場面って。

 

「ご指導」の指導はなんとなく皆さん分かると思うんですが、もう一つの「ご鞭撻」という言葉。普段はまず使わないよね。「ご鞭撻、ありがとうございました。」とか、「あれっ?先輩、今のってひょっとしてご鞭撻ってヤツですか?」とか、「お前なあ、今の俺のご鞭撻気付かなかったのか?」なんて言葉が交わされているところ、見たこと無いでしょう。(>_<)

 

この「ご鞭撻」という言葉の意味を調べてみますと、「強い 励まし をこめて 厳し く 指導 すること。」なんだそうです。いいですか、「厳しく指導する!」なんですよ、意味的には。

 

なのに、どうだろう。今の世の中、右を向いても左を見ても、会社でも町内会でも別なコミュニティでもいいや、とにかくこの「ご鞭撻」をきっちりとやっている光景を見たことが無い。一億総中流とか、経済至上主義、合理主義天国。とにかく、手間の掛かること、面倒くさいことは棚上げにしておいて、目の前の利益を得ることを最優先に考える世の中。本来ならば、じっくりと時間を割いてやらなければいけない、新人や異動してきた人の教育や指導も、マニュアル通りの記録だけを残した中身の無い空虚な座学を短時間だけやるものへと移り変わってしまった。

 

しかも、ここに来てやれパワハラだ、モラハラだ、セクハラだと世間がこぞってまくし立てる。確かに行き過ぎなのは大いに問題にすべきだが、厳しいしつけや指導にはそれなりの意味があったはず。仮に先生に叱られるのが嫌でやった宿題や罰として校庭を走らせられた経験だって、長い目で見れば、それは先生があなたを憎くてやっている分けでもなんでもなくて、ただただあなたの未熟さを戒めるための心の教育だったんだとアタシは思いたい。

 

げんこつに往復ビンタ。大声で叱られるのなんて、当たり前。そんな教育を受けてきた世代はたぶん、我々団塊ジュニア世代が最後なんでしょう。でも、悪いことをしたから罰を受ける。悪いのは自分、だからぶたれてもしょうがない。叩かれることで、目が覚める。自分の未熟さを自覚する、反省する。だから、次回からは同じ過ちを繰り返さないと心に誓う。

 

これって、なにか特別なことなのかなあ?

 

どっちかって言うと、動物の本能的な部分だよね。誰に教えられるわけでも無く、本来人間が持っている能力。だから獅子は可愛い我が子を谷底に突き落としたりする分けでしょ。いつの間にか人間が「理性」という人間最大の武器に頼りすぎて、この痛みを伴うことによって、心を修正するというもう一つの立派な武器をどこかに置き忘れて来てしまったんではないだろうか。

 

新人の横柄な態度、知らずにやらかしてしまうミス。「そんな重箱の隅をつつくようなこと、今更流行んないよ」、「今、そういう時代じゃないですから」と人は言う。そうして、甘やかす。ダメなことはダメなんだと言わず、見て見ぬふり。結果どうなるか?是々非々を放棄した社会はどういう方向に向かっていくのか?そんな「別にいいんじゃねーの」が大手を振って通りのど真ん中を堂々と歩いていく社会。それは、今の政治を見れば分かりますよね。昔も政治家はあんまし一般大衆のことを考えているようには感じ無かったけど、ここまで酷くは無かった。悪いことは悪いとちゃんとあぶり出していたし、罪と罰をうやむやにするようなことはしなかった。

 

「ご指導、ご鞭撻」という言葉が、ただの挨拶用語になってしまってはいけない。

だって、「ご鞭撻」は「強い励ましを込めて、厳しく指導すること」なんですから。

 

「男は強くなければ生きていけない 優しくなければ生きていく資格がない」という名言がある。

 

そう、「強い」が先にあって「優しさ」がある。「優しさ」が先にある分けではないんだよ。

 

こんな生ぬるい、もたれ合いの優しい社会のツケはいつか回ってくる。

 

コロナ禍をきっかけにそれを軌道修正出来たら、いいんだろうけどね。