やり過ごさなければならない社会?それとも多様性? | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

あなたも「すこっち」に酔いしれてみませんか?

どうも、すこっちです。(^_^)

 

本来であれば、仙台城のことや伊達政宗のこと、アタシのガイド活動報告といったことを書いているはずのブログが、今年はコロナ禍の影響で活動休止。気が付いてみたら、なんだろう?ジャンルを問わず思いつきのわがままで、毎回持論を展開するような形となっておりますなー。(>_<)

 

会社勤めをしていて変化の無い日々日常を過ごしてるとね、あっという間に1週間なんて経ってしまうんです。でもね、ブログをやり始めてから、なんてことのない目の前の出来事も、ふといろんな考え方や発想が思い浮かんだりする。これは、「なにか書かなきゃ」っていうプレッシャーもあるけど、ブログを書くという行為を積み重ねているうちに、自然と身に付いた習性みたいなもんなのかもしれない。

たぶん、そんな感覚を持ち合わせたグレードの高い人たちがライターとかになっていくんでしょうね。

まーアタシは無作法なんで、もちろん無理でしょうけど、、、。(-_-;)

 

さてと、今日も今日とて無作法なすこっち節でマイルドに参るとしますかね~。

 

世の中にはいろんな人がいる。会社でもそう、町内会でもそう、なにか小さなコミュティが存在すれば、そこには間違いなく自分の思い通りにはならない世界が存在する。それはつまり、ヨーロッパやアメリカのようにお互いが自己主張を戦わせて、相手を認め合って決着する。そんな絵に描いた餅的なストーリーは我が国日本には存在しない。どこまで行っても、一部の自己主張をしたいヤツは相変わらずパワハラ常套で、意見に流される人、なんの意見も持っていない人がほとんど。結局は物わかりのいい日和見主義のおりこうさんが忖度という妥協点を見つけてソフトラウンディングするという仕組みだ。

 

こういう仕組みのニッポン国ですから、例えば会社のある人の行動が行き過ぎている!とか、それはいくらなんでもおかしいでしょう?ということに対して、嫌悪感はあるんだけど、「目くじらを立ててもな~」とか、「ここで波風を立てて、自分だけ四面楚歌になってもなあ」みたいな損得勘定を優先すると、大抵の人は制限速度遵守の安全運転に徹する。そして、どうにかその場をやり過ごそうとする。

 

世の中にはいろんな人がいて、いろんな考えの人がいる。今はなおさら多様性万歳!の社会だ。

「土曜の夜8時にはみんなが全員集合を観ていた。」そんなふうに価値観を同じベクトルに誘導出来たのは古き良き時代のこと。今は同じ屋根の下に住んでいる家族でさえも、それぞれが好き勝手なことをしていたりする。

 

「多様性の世の中だから」という言葉が大手を振って歩く世の中が当たり前なのか?その言葉に私たちは屈服するしかないのか?丸め込まれてみすみすスリーカウントを取られて悔しくないのか?

 

果たして「やり過ごさなければならない社会」というのは、本当に正常なのか?なんかそういう腑に落ちないようなことがやたらと多すぎる気がする。本当だったら、ダメなことはダメ!良いことはイイ!ってハッキリ言える社会!そして、その意見に真摯に耳を傾ける。それこそが、本来正しい社会なのではないでしょうか?

 

言われた人が「なんだ、こいつ!」と相手を責める気持ちを持つんじゃなくて、「うん、うんなるほど、確かに一理あるな。」とか「あんたの言っていることはもっともだ。」と、自分の価値観ありきじゃ無くて、フラットな気持ちで聞く。そして、当たっていることには素直に理解を示す。社会全体が年齢・性別・職業・収入なんかに左右されず、目の前の人を一人の個として扱う。

 

そんな柔和で優しい世の中だったら、どんだけ過ごしやすい世の中なんだろう。

 

いっそのこと、そんな人だけを集めて国を作ることが出来たら、争いごとも無いかもなあ~。

 

たぶん、旧約聖書のノアと生き残った人々はそういう選ばれし民だったのかも。

 

少なくとも、このブログを読んでくれている人は箱船の席を予約出来る、きちんとしたハートの持ち主だとアタシは思っているよ。(^^ゞ