「父の日」の存在は世の中のリトマス試験紙!? | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

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どうも、すこっちです。(^^ゞ

 

6月の第3日曜日は「父の日」。

 

6/21(日)の今日がまさにその日である。

 

コロナ禍の影響で、いつもの年よりはセーフモードの「父の日」。

ただでさえ影の薄い父の日の存在がさらに薄まった感は否めないが、それでもスーパーなどでは「父の日キャンペーン」で週末の売り上げアップに躍起になっている感がある。

 

では、すこっち家の「父の日」はどうなのかというと、悲しいくらい全くの「無風区」。(>_<)

 

もちろん、アタシが父への感謝の意を表したプレゼントは欠かしたことが無い。

そういうことを疎かにしたんでは、バチが当たるという思いがアタシの中にはある。

今日も早起きして、閖上港朝市まで足を運んで、本人に電話して好みを聞いてから刺身類をしこたま買って送り届けた。喜んで頂けたようである。(^o^)

 

それに引き換え、うちの息子たちからそういうプレゼントをまともにもらったことは皆無である。

 

親の育て方が悪いのか、そういう時代なのかはよく分からないが、まあ酷いもんです。

何年か前に自ら「父の日キャンペーン」を仕掛けたりして、あおったりしたこともあったが、そもそも自分にその気が無いヤツをあおり立てて贈り物をもらうことに何の意味があるのだろう?と思い始めてからはそんな無駄な抵抗も馬鹿らしくって、止めることにした。(-_-;)

 

当然、今日も現時点でノーリアクションのようである。

 

別にね、何が欲しいとかそういうことを要望して拗ねている分けでは無い。

 

要は「気は心」なのである。

 

「気は心」=量や額がわずかであったとしても、本人の真心の一端を表すものであるということ。

 

こういう気持ちって、いったいどうやったら身に付くものなのか、、、。(-_-;)

 

こんなことを調べる機会もなかなか無いので、「母の日」と「父の日」の歴史について調べてみた。

 

制定された日はとりあえず置いといて、「母の日」がアメリカで正式に制定されたのが1914年。

これに対して、「父の日」が制定されたのが1972年。実に半世紀も遅れて、「父の日が」制定されたことになる。

 

そもそも、「父の日」が出来た経緯も釈然としない。(-_-;)

 

あるアメリカン人女性が男で一つで育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったことがきっかけだったそうだが、当時はもう母の日がメジャーになっていたために彼女が父の日もあるべきだと考え、「母の日のように感謝する日を」と牧師教会に嘆願することから「父の日」が誕生することになった。

 

いわば、「父の日」はどこまで行っても「母の日」のおまけである。

 

「海の日」があるんだったら、「山の日」も的な発想。

 

このアメリカ人女性みたいな心根の優しい、健やかに育った方がいたから今の「父の日」が存在する。

もし、それがなかったら永遠に父の日なんてこの世に存在しなかったのかもしれない。

 

父は夫なのだけれど、こと存在感に関しては刺身のツマ的な存在の「父の日」。

 

平成に入ってドライ感覚な時代の波は、あっという間に「父の日」をスーパードライへと昇華させ、令和時代に至っては、コロナ禍とのコラボレーションで「父の日」という海水を砂浜の砂に浸透させてしまった、

 

もはや、「大草原の小さな家」のチャールズ父さんなんて、夢なのか?

 

最近アタシは、こう思う。

 

「父の日」は時代を映すリトマス試験紙なんじゃないかと。

 

戦後の高度経済成長期、核家族化が進むサラリーマンの父親は一家の大黒柱的存在。専業主婦の割合も多かった分けで、一家の安定を一番に考える母親としては旦那を立てて、子供の情操教育も兼ねて「父の日」を価値のあるものとして、崇(あが)め奉ってきた。

 

実際のところ、アタシもそんな環境下で育ってきた。物心が付いた頃から、父親は私たちの生活を支えるために働いてくれているんだ=感謝するのは当然という刷り込みが成されてきたように思う。

ある意味「昭和」の国体教育の名残と揶揄されるかもしれないが、それはそれで人の道に沿った良い慣習だったんだろうと納得している。

 

しかしながら、昭和後半~平成に入ってバブル~バブル崩壊のロスジェネ世代に至っては、ゆとり教育も相まって時代の波に翻弄されて来たことあるんでしょうけど、経済至上主義&合理主義万歳&デジタルオンパレードの世の中にまんまと飲み込まれてしまったように思えてならない。

 

そもそも、「その考え」、「その行為」が人としてどうなんだ?という疑問を疑問とも思っていない。

こいつらは「義侠心(ぎきょうしん)」というものを感じたこと、考えたことがあるんだろうか?

 

平成・令和という時代が造りだした超合理主義という名の「怪物」には、人を思いやる気持ち、温かみというものをどこかに置いてきてしまったんだろうか?

 

太古の昔からいくら時代が変わって、人類が進歩を遂げたとしても、人の感性や物事の考え方はそんなには変わってはいない、はずなのに、、、。

 

今、「父の日アラート」が真っ赤っかである。(-_-;)

 

ソーシャルディスタンスは離れっ放しである。

 

アナタの今日の父の日は、どんな夕食を囲んでいるでしょうか?

 

ちなみに、アタシは閖上港朝市で買ってきた惣菜で「マイ父の日」を開催する予定である。

 

今やバレンタインデーも自分のためにチョコを買う婦女子が多いと聞く。

 

だったら、「父の日」をセルフプロデュースしてしまうのも悪くないだろう。

 

きっとこれが、「新しい父の日の生活様式」なんだと自分に言い聞かせる、すこっち父さんでした。(-_-;)