どうも、すこっちです。(^^ゞ
ゴールデンウィークだというのに、自宅軟禁生活ナウのみなさん、いかがお過ごしでしょうか?
まあ、今の状況ではとりあえず「こもっとく」しかないんで、信長の死に際の最後の言葉を借りれば「是非に及ばず」(やむを得ん、仕方の無いことだ)ってことで納得しましょう。(-_-;)
さて、日本史を振り返ってみますと、天皇だったり、将軍だったり、はたまた時の権力者を背後で操っていた人なんかが、極刑なら斬首、切腹となる分けですが、その次は島流しなどが一般的。
でも、そこまでの重刑ではないけれど、とりあえずあいつを断罪しているってことを世間に知らしめるために閉じ込めておけ!的な刑罰が存在したんです、種類にはこんなものがありまする。
【遠慮】自主的に行う意味合いが強く、門を閉ざして日中は外出を控えます。ただし、訪問客は受け入れてもよく、夜も目立たないように外出すれば黙認されました。僧侶なんかも科せられた刑です。
【逼塞】門を閉ざして白昼の出入りを許さないこと。閉門より軽く、30日、50日の2種類あり、僧侶も科せられた刑です。
【閉門】蟄居より軽く、逼塞より重い監禁刑です。屋敷の門扉は交叉された竹竿で閉ざされ、召使いなどの出入りは禁じられ、一室で謹慎します。50日と100日の2通りありました。主君の喚起に触れたり(怒らせたり)、不手際(失敗ね)を起こしてしまうと命じられることが多い刑でした。
【蟄居】幕末に徳川慶喜が上野の寛永寺に蟄居したことで有名ですが、偉い人が命じられる刑としてはメジャーですかね。蟄居には「蟄居・隠居蟄居・永隠居」の三種類があります。
屋敷内の一室に自ら閉じこもり、髪結いも髭剃りも入浴もせず(臭かっただろね)室内から一歩も出ません。例外は便所のみで、食事は家族が運びます。
ちなみに、「隠居蟄居」は家督を譲り、当主としての権限を一切失う。ただし、家禄や武士としての身分はそのままです。「永蟄居」は改易の一歩手前の終身刑のようなもので、座敷に牢格子をはめられることもあり、一歩も外出は出来ませんでした。
そうしてみると、隠居蟄居は家禄が維持される点ではいいですが、一度隠居してしまうと二度と復職は出来ませんでした。失態や失政などで、若いのに強制的に隠居させられた場合、武士としてその後の人生はさぞ、悶々とした日々を送った人が多かったことでしょうなあ。(-_-;)
さて、我らが仙台伊達家においても、この「お前は家におこもり刑」の憂き目に遭った人が二人いた。
しかも、親子で。仙台藩3代藩主の伊達綱宗公と4代藩主の伊達綱村公である。
「いったいこの親子は何をやらかしたの?クーデター?」
歴史に明るくない方は純粋にそう思いますよね、戦の無い時代だって言うのにさ。
長くなるので簡単に説明をしますと、綱宗公は2代藩主忠宗公の6男。普通に考えたら跡継ぎ候補でもなんでもなかった。なので若かりし頃から遊び人。「どうせ俺は跡継ぎでも何でも無いし」的な感じで、やさぐれ人生のままお気楽人生を終えるはずであった。
ところが、運命のいたずらか「保元の乱」の時の後白河天皇のように、なぜか順番が巡ってくる人だったのね。20歳で3代藩主になったんだけど、酒食に溺れて藩政を顧みないもんで、叔父さんの伊達宗勝(政宗の10男)らにダメ出しされ、最終的には「藩主失格」の烙印を押されて、逼塞→隠居となった。
お取り潰しにならなかった仙台藩。後を継いだのはわずか2歳の亀千代(のちの綱村公)。当然2歳じゃ政(まつりごと)は出来ませんので、このあとさっきの伊達宗勝クンが専横政治の限りを尽くします。
でも、「この世に悪は栄えない!」と正義の裁きが下ります。これが、かの有名な「伊達騒動」(寛文事件)。(原田甲斐、樅の木は残ったでも有名)悪者は一掃され、仙台藩は存続します。
その後、お父さんの二の舞は踏むまいと、亀千代君が4代藩主綱村となって、君主中心の専制政治を行います。ところが、その後がよろしくありません。頑張り過ぎる綱村公、次から次へと改革も行うけど、建築好きの造営ラッシュで財政は逼迫。家臣の忠告にも耳を貸しません。あまりの横暴にとうとう親族や家臣達の怒りが爆発!綱村公44歳の時に強制隠居となり、仙台藩主のバトンは5代吉村公へと引き継がれることになります。
強制隠居の身となった綱宗・綱村親子。
綱宗公は享年72歳だから、50年近く江戸品川の大井屋敷で隠居生活。
綱村公は享年61歳だから、17年ぐらいの隠居生活。
仲良く親子揃って、8年ほど隠居生活がかぶっていたのかな。(-_-;)
まあ、蟄居や逼塞には当てはまらなかったので、二人ともそれなりに充実した余生を送ったんでしょう。
綱宗公に至っては風流人として名を馳せ、「花鳥図屏風」などの作品も残っている。
しかし、先代藩主二人が存命のまま江戸の屋敷で隠居するということは、要は金食い虫の上様が現役意外に二人も存在するということ。
結果どうなっていたのかというと、5代藩主の吉村公は隠居中の元上様親子のために、一上様あたり毎年現金5万両と米10万石を送っていたんだそうですよ。ダブっていた8年間はWだから、10万両の20万石になりました。現在に例えると、会社の名誉会長と会長が東京の一等地で悠々自適なマンション住まい。そのために社長が仕送りしているような状況になるんですかね。
吉村公としてはさぞや、行き場の無いフラストレーションが溜まったことでしょうなあ。(>_<)
その後吉村公は発奮して頑張って、現在では仙台藩中興の祖なんて呼ばれるようになりましたけどね。
ねっ!おこもり生活が17年と50年。しかも、親子で8年。
地元仙台にこんな、おこもり族の大先輩がいらっしゃったとは、、、。(-_-;)
みなさん、それに比べれば、まだまだやれますよ!
やることが思いつかないときは、過去の「すこっちのブログ」でもご覧になって歴史のお勉強ETCを楽しんでくださいな。あーそうそう、仙台藩主13人を覚えるのもいいかもよ(って、どこで披露すんのよ!)
政宗(ヒーロー)・忠宗(二の丸と東照宮)・綱宗(遊び人)・綱村(かんしゃく持ち)・吉村(巨人の永遠の5番打者)・宗村(伊達家の通字Wだよ)・重村(遊び人&羽生クン)・斉村(短命)・周宗(もっと短命)・斉宗(藩主奇跡のバトンパスを受けた人)・斉義・斉邦・慶邦(どっちつかずの最後の藩主)