日本史においての子だくさんってだあれ? | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
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どうも、すこっちです。!(^^)!

 

2017年の調べによりますと、我が日本国の生涯出生率は1.43人なんだとか。

 

ってことは、女性が生涯のうちに一人産むか産まないかということになるんですかね。時代も様変わりしまして、働き方も考え方も多様化している昨今ですから、一言では片付かない由々しき問題でもあります。

 

さて、日本の歴史において教科書や一般的な史実に名前を残している人で一番の子だくさんだった人って誰なんでしょう?まあ、我らが伊達政宗様に至っても確認されているだけで16人の子供がいた分けなんですから、そりゃあトップって言ったら当然抜きん出ているんでしょうね。

 

会話の中でこうしたネタフリをされた時のために、二人の名前を覚えておきましょう!

 

まず一人目が第52代天皇である嵯峨天皇(786~842)。

 

彼は56年の生涯に皇子・皇女を50人ほど儲けております。(もちろん、一人の奥さんからではありませんよ、側室ってやつね)

 

二人目が徳川幕府の11代将軍である徳川家斉(1773~1841)。

 

彼は、55人から57人の子供を儲けたという記録があります。(くどいようですが、一人の奥さんからではありません)

 

それにしても、そんなに子供がいたんじゃあ全員の名前、たぶん覚えられなかったでしょうな、きっと。

っていうか、全員が一堂に顔を合わせるなんてこともなかったんでしょうけど。

 

嵯峨天皇の子供達にはこんなエピソードがあります。

 

幼少時の死亡率が極めて高かった中世において、彼の子供達は無事に育った子供の方が多かった。

多くの子供が成人するのは良いことなんだけど、実際に皇位継承できる皇子はごく少数に限られており、平安前期から中期にかけて、皇位継承の道を閉ざされた皇族が多数発生することになってしまった。

 

そうした皇子の中には国家の厚遇にかこつけて問題を起こす者もいた。まあ、「どうせ、俺は皇位継承権ねえんだから、好きにさせてもううぜ!」的なやさぐれたやつが多かったんでしょうなあ。

 

これらの皇親に対しても律令の定めにより一定の所得が与えられることで財政を圧迫する要因となったため、皇位継承の可能性がなくなった皇親たちに姓を与えて臣籍降下させる皇親賜姓(こうしんしせい)が行われるようになったのです。要は「あんたら、新しい姓を与えてやるから皇籍から抜けてちょうだい。」って分けね。

 

そうして、嵯峨天皇の親王・内親王のうちの32人が「源氏」の姓を与えられて臣籍降下することとなった。ちなみに、「源氏」というのは「源(みなもと)を天皇と同じくするという意味。

 

この嵯峨天皇以外にも歴代天皇の多くが親王や内親王を「源氏」に臣籍降下させていった。清和源氏、宇多源氏、村上源氏などなど。なので、源氏は一大勢力となるのです。

 

それに比べれば、桓武天皇の臣籍降下による「平氏」は桓武天皇一代のみによるもので、それほどの数では無かったんだとか。

 

つまり、嵯峨天皇が子供を多く産ませ過ぎたことによって歴史の流れはこうなったと見ることが出来る。

 

皇族過多→源氏や平氏に臣籍降下→豪族・武士の台頭→源平合戦→武士政権(鎌倉幕府)樹立

 

あーあ、歴史に「たら・れば」は無いけれど、子供の数をそこそこにしておけば、臣籍降下の乱発をしなくてもよかったわけで、結果武士の世に取って変わられることも無かったということなんでしょうかね。

 

子だくさんのエピソードは二人目の徳川家斉にもありました。

 

家斉は40人の側室を持ち、その中の16人に男子28人、女子27人を産ませているんですが、その半数以上が早世(早くに亡くなっている)した。とはいえ、残りの半分は立派に成人したんです。そうなると、成人した将軍の息子や娘ってことは、出来はともかく折り紙つきのサラブレッド!この人たちの対処に幕府も頭を悩ませることになるのです。

 

まさか、将軍の子がね「臣籍降下」みたいな中途半端な見切処分なんて出来る分けが無い。なので、それ相応のところに、養子に出したり、嫁がせたりさせた。ってことは結納金とかお供の人とかこれまた幕府の出費が増大。受け入れる諸藩の方もハンパないよね、それ相応の屋敷をあてがったり、厚遇をしなければならない分けだから、これまた莫大な出費を余儀なくされたのです。

 

つまり、家斉の子だくさんの場合だとこういう仮説が成り立つ。

 

家斉ジュニアーズ成人→養子・婚礼作戦→幕府財政困窮・諸藩も困窮→幕府弱体化→討幕

 

嵯峨天皇、徳川家斉いずれにしても結果的に自分がきっかけで「お家」の首を絞めることになったんですな。

 

やっぱ、なにごとも「腹八分目」に勝る格言は無いのかもしれませんな。(-_-;)

 

ちなみに、この二人に共通する精力剤がありまして、それが牛乳などの「乳製品」だったんだとか。

 

どうでしょう?今日は牛乳で乾杯!っていうのも。