実は伊達家は存在しなかったかもしれない | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
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どうも、すこっちです。!(^^)!

 

今回はゴールデンウィーク特別企画と題しまして、伊達政宗や伊達家のもし、たら・ればを大胆仮説で検証してみたいと思います。

 

第1回目の今日は、「実は伊達家は存在しなかったかもしれない」です。

 

源頼朝と義経の仲が冷え切って幾年。振り返れば、源氏のため、兄頼朝のため忠義を尽くしてきた義経クン。平家という当時の悪の帝国を壊滅したスーパーヒーローのはずなのに、調子に乗ってしまったというのか、大天狗(後白河法皇のことね)に踊らされてしまったからなのか、源兄弟の心のベクトルは完全にすれ違いを起こしてしまった。

 

頼朝から追われる身となった義経。ここで、頼朝は大江広元らのアドバイスを受け入れて、次のような手を打つ。平家を滅ぼした今、次のターゲットは奥州藤原氏。だけど、やみくもに戦は仕掛けられないので、西国に逃亡した義経の包囲網を東国、奥州へ逃げ延びるように狭めて、平泉へ向かわせる。

義経をかくまった罪で泰衡を追求。それを口実に挙兵し、奥州藤原氏を滅ぼす。

 

かくしてこのプラン通りに事が運んで、「奥州合戦」、「奥州討伐」、「文治の役」と呼ばれる戦が勃発するという分けなんですな。まあ、アタシなりに命名すると、「義経を泳がせてかくまった藤原氏を滅ぼしちゃいましょうよ作戦」とでも言いましょうか。

 

そして、頼朝は御家人たちに総動員令を発した。その時、頼朝のいとこである伊達家の始祖朝宗(ともむね)クンにもお声が掛かった。「朝宗クンも奥州行くよね!もちろん」ってな感じかな。当時、朝宗クンは常陸国(今の茨城県)真壁郡伊佐荘中村ってとこに住んでいて、名字は「伊佐」または「中村」を名乗っていた。「伊佐朝宗」、「中村朝宗」だったのね。

 

それが、頼朝クンに付いて行った(というよりパワハラ動員なのかな)奥州合戦で軍功を上げたんで、そのご褒美として伊達郡(今の福島県伊達市)を拝領し、領内の桑折郷高子岡に城を築いて居住するようになったという分け。そうは言っても、初めは本拠地である常陸国がメインで、伊達郡はサブみたいなもんだったのね。そのうちに、三代目の伊達義広は桑折郡の粟野に屋敷を構えて住んだり、七代目の行宗なんかは常陸中村と伊達を行ったり来たりしていた。それが八代、九代あたりから伊達郡メインで住み始めたってことなんです。

 

そんでもって、伊達地方を治めていて、伊達に住んでいたから代々「伊達」を名乗っていったという分け。

こうして、「伊達家」が歴史の表舞台に登場したってことなんですねー。

伊達家にしてみたら、東国(関東)には有力なライバルが多いんで、与えられた陸奥の国の方が治めやすいし、領土拡張も期待出来たってことだったのかな。

 

つまり、ここにこんな「たら・れば」仮説が成り立つ。

 

1.もし、義経が素直で物分りが良くって、周りの空気を読めたら頼朝との関係も冷え切らず、奥州合戦も起こらなかった。いや、むしろ奥州征伐の総大将になっていたのかもしれない。

 

2.もし、奥州合戦が起こらなければ、朝宗は参戦していない分けだから軍功を上げることも無く、伊達郡を拝領することもなかった。=伊達家は存在していないか、別の人が伊達家を名乗っていた。

 

3.もし、後白河法皇がいい加減、さっさとアーメン(亡くなるってことね)していれば、頼朝も義経も引っ掻き回されることもなかった。

 

まあ、1の場合は朝宗クンは奥州行ってたでしょうな、いとこだしね。2の場合、っていうかそれは無いだろね。遅かれ早かれ、頼朝は藤原氏をポアしたかったんでしょうから。3はごめんなさい、よく分かんない人は「後白河法皇」をウィキペディアで調べてみてね。この人が、下手に長生きして源氏と平家をもて遊んだお蔭で、朝廷の権威が失墜し、武家政権誕生に繋がったと言ってもいいのかもしれないです。

 

あれっ?てことは一番の功労者って実は、「後白河法皇」?