お国替えはほどほどにして欲しーの! | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

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どうも、すこっちです。!(^^)!

 

「お国替え」と言いますと、我らが「伊達政宗」も経験してますなあ~。

 

お城だけで見ると、米沢→会津黒川城→岩出山城→仙台城。その中でも一番大きな引っ越しは、何と言っても先祖伝来の土地だった米沢~福島周辺の土地から今の宮城県にお引越しをしたことでしょう。

 

この時、伊達家特有のというかまあ他の大名もやってたんでしょうけど、譜代の商人や職人・寺社なんかも一緒にお引越しするのね。だから、民族大移動もハンパない。ちなみに、仙台で言うと大町の3・4・5丁目は米沢→岩出山→仙台と行動を共にして来た「譜代町民」の街だったそうです。

 

さて、織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と天下統一へ向けた動きが加速すると、こうしたムーヴメントに従わずに反旗を翻した人たちは、そのほとんどが圧倒的な武力を持って静圧されてしまう。そうなると、その人たちが治めていた領地は早い話が、自分とこの息の掛かった社員を送り込んで統治させるという図式になる。

 

そこで、「お国替え」が発生する分けだが、さっき書いたように「自分とこの息の掛かった社員」=譜代大名と言うことになる。主だった譜代大名で転封が無かったのは、彦根の井伊藩くらいで、佐倉藩主の堀田家などは、安中→古河→山形→福島→山形と19年間の内に4回も移封を経験している。姫路や浜松では実に10家もが出たり入ったりしている。(回される方も住んでる方もたまったものではない)

 

単純に「国替え」といっても、藩士やその家族や関係者がみんな引っ越しを強要される分けでして、例えば藩札(藩内だけで通用するお金のことね)を清算したり、次に来る人のための準備も同時進行でやらなきゃいけなかったりと、移される側としては大迷惑以外のなにものでもなかった。(>_<)

 

それなのに、それなのに引っ越し費用は、結局領民の負担になったのだからたまったものでは無い。

百歩譲って禄高が増えての栄転だったらね、少しは救われるでしょうけど、その逆だったら、、、。(-_-;)

 

こうした傾向は八代将軍・吉宗(時代劇の暴れん坊の人ね)の頃からかなり減って、江戸時代後期には同じ家系の殿さまが続くことが多くなったんだけど、なかには天保の改革の水野忠邦みたいに、どこどこの藩主じゃないと幕府の老中になれないんで、自分の出世の為に石高が減るのに、あえて国替えを申し出るというとんでもないヤツもいた。松平定信なんかは幕閣の実力者であるのをいいことに、自分の藩(白河藩)が貧しいんで、要地である桑名藩(現在の三重県桑名市)に国替えを強要した。忘れていけないのが、当然そのあおりを喰らって移動させられた藩があるってことなのだ。(-_-;)

 

まあ、この二人の改革(寛政と天保)って、結局はどっちも失敗してますけどね。

 

よくよく考えてみると、伊達政宗が宮城県に国替えになったのって秀吉政権の頃。お取り潰しや国替えが頻繁に行われたのは、江戸時代初期の話。そういう意味では、政宗様は早めに宮城県に移って来て、初代藩祖になったんだから、結果オーライだったのかもしれないですね。

 

戦国武将を町おこしや観光の集客アップに利用するという手法は各地で頻繁に使われていますが、その浸透度は、藩主の地元密着度に比例するとアタシは思う。

 

そういう観点から見ると、伊達政宗 万歳!なのかもね。!(^^)!